行き倒れ
パチリ、という音と共に部屋の中が明るくなって、男が一人、入ってきた。男は右手にいい匂いのする器を持っており、もう片方の手には湯気立ち上るマグカップを持っていた。
「起きたのか」
男の顔を見るなり、チェスター・ベニントンは見るからにげんなりとした顔をして、「・・・またあんたか」と呟いた。同時にチェスターの腹が盛大にぐきゅうと鳴った。
数分後、男からもぎ取るように奪い取った皿の中身をがっつくように平らげたチェスターは、やっと人心地ついてマグカップの中身をすすっていた。カップの中には砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーが入っており、ささくれだったチェスターの心を緩やかに和ませてくれる。
男は部屋の中に一つきりの椅子に座って、背もたれと量腕に顔を預けるようにしてチェスターを眺めていた。何も言わなかったが、顔にはほとほと呆れた、という表情がありありと浮かび上がっており、チェスターは顔をひきつらせた。
チェスターが何か言う前に、男が口を開いた。
「・・・お前は行き倒れるのが趣味なのか?」
「は?」
「先月の十二日と、今月に入って一度・・・お前を助けるのは二度目だぞ」
「助けろなんて頼んでねぇよ。あんたが勝手に拾ってくるんだろ」
チェスターは苛立ちを含んだ声で言った。ぎっと目の前の男をねめつける。
「あんたこそ、俺みたいなホームレス拾ってきていけないことするのがシュミなんじゃねぇの?都会にはどんな変態がいるか知れたもんじゃないからな」
揶揄を含んだ声で嘲笑したら、男は「放り出すぞ」としかめっ面で凄んだが、それだけだった。
以前来たときもそうだった。十二月のニューヨークで、何処に行く当てもなく、寒空の下死にかけていたチェスターを、男は文字通り担ぎ上げて自宅へ連れ帰った。その後介抱されて、今日のように恩知らずもいい所の暴言を吐かれても、男はなぜかチェスターを叩き出そうとしなかった。それどころか男はチェスターを置いたままに家を開けることすらあった。普通なら考えられないことだ。見ず知らずのホームレスを部屋に置いたまま外出するなど、部屋中の金目の物を盗み出されてトンズラされても文句は言えない。
結局チェスターは体力が回復するまでの間男の家に滞在し、五日目の朝、男が仕事に出た後に部屋を後にしたのだった。
「あんた、普通じゃねぇよ」
事の顛末を思い浮かべながら、チェスターは苦々しさを浮かべた顔で呟いた。
男をいけ好かないと感じてしまうのは、その行動の意味不明さからだけではない。せめてもの礼にと差し出したチェスターの体を、男が拒否したからだ。チェスターも伊達にホームレスをやっていたわけではない。公園のトイレやら安ホテルやらで、口や尻を使って男に奉仕する術は心得ていた。
「なぁ、あんた、何でやんねーの?あんたから金は取らねぇよ」
チェスターはベットに仰向けに横たわっていたが、呟くように男に向かって言った。男は顔をしかめて「またその話か」と言った。
「前にも言ったが、そっちの趣味はないんだよ」
「どうだか、案外ハマるかもよ」
俺上手いぜ、と卑猥に舌を出して見せたチェスターを男は嫌な物でも見るような顔をして眺めたが、ふと顔を緩めると、「べつに大した訳じゃない。明日は我が身か、と思っただけさ」と言った。
男はチェスターから目を反らして、何とも苦そうにそう言ったので、チェスターはからかうのも忘れて男の顔に釘付けになってしまった。
短く刈り込んだ黒い髪、髪と同じくらい堅そうな顎髭、濃い眉毛の下のまつげは黒々として量も多かった。そのふさふさしたまつげの下の両の目が、いつもの柔和そうな表情とはうって変わった寒々しさをたたえている事に気がついて、チェスターは喉がひりつくような感じを覚えた。
ああ、こいつもだ、とチェスターは思った。こいつも一人ぼっちなんだ、俺と同じく。
「あんた早死にするよ」
ひりつく喉から絞り出した声は乾いており、チェスターは自分の声にぎくりとした。男は特に気にする風でもなく椅子から立ち上がると、チェスターの頭を軽く叩いた。
「寝ろ」
そのまま部屋の隅まで歩いていって電気を消すと、男は毛布の上に寝転がった。暗闇の中で毛布をこするごそごそという音がしていたが、しばらくするとそれも止んだ。
男の規則正しい寝息と、頭の上の水槽から聞こえるうなるような機械音、水泡がコポコポと音をたてながら登っていく様子を聴きながら、チェスターは眠れなかった。
閉じた瞼の裏側では、今しがた見た男の表情と言葉が焼き付いていた。
寂しいのかあんたも。俺と同じだな。
チェスター・ベニントンは腹の底がじわりと温まるのを感じながら、今度は一週間と言わず一年くらいいてやろうと勝手に決めた。