Slow Luv Op.3
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「ユアンがエツを指名したのは、ライバルを知っておきたかったからじゃないかな」
仕事が終わって、遅い昼食を近くの喫茶店で悦嗣と英介は取っていた。
「ライバルって、意味わかんねえ…」
意味がわからないことはない。さく也から寄せられている想いはとっくに知っているし、キスをしたこともある――それも二度も。思い出すと、頬に赤味が差しそうだ。
「今年の春にユアンが、一緒に組んでヨーロッパを周らないかってさく也を誘ったんだけど、他に組みたい人間がいるからって断ったんだ。その時出た名前がエツシ・カノウだったわけ」
「そんな話、聞いてない」
「さく也はエツが好きなんだよ。見てて微笑ましいくらいだ。おまえからメールが来たらしい時の、機嫌がいいことったら」
悦嗣は複雑な気持ちだった。自分が好きな英介が、自分のことを好きなさく也の話をする。
「おまえの口から出ている話だとは、思えない内容だな」
英介は笑って「ゲイはすでに一般的だろ?」と答えた。
「自分よりガキなやつにガキって言われた」
「ライバルが自分と同じくらいだったからじゃないかな。今までは、年の離れた人ばかりだったから」
再度、悦嗣の口が半開きになる。
「さく也はファザ・コンなんだ」
と、英介は付け加えた。
昼食を終えてホールに戻ると、リハーサルが始まっていた。
リサイタルのプログラムは、ショパン・コンクール優勝者らしく、ショパンでまとめられている。もともとはベートーヴェンを得意としているという英介の話だが、正反対のショパンでタイトルを取ったことからみて、かなりの才能だと思われた。
「二十二日のオケ・コンにも出るのか、こいつ」
総合プログラムの八月二十二日の欄は、地元オーケストラのコンサートが入っていた。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』。ピアニストの名前がユアン・グリフィスだった。
「出来ればこれも聴いて行きたいけど、俺はウィーンに戻らなきゃならないな」
悦嗣のプログラムを覗き込み、英介が残念がった。
ステージでは優美なショパンのワルツが流れている。鍵盤は重めに調整したが、それを感じさせない。長い指のせいか、無駄な動きがなく、弾いている姿も優雅だった。
ショパン・コンクールの批評記事で、誰かが彼の音を『金色の旋律』と評していた。それでついたあだ名が『黄金のグリフィン』――夢見がちなあだ名だと思いながら、記事を読んだことを悦嗣は思い出した。実物を見るに、大げさな表現ではなかったんだなと妙に納得した。
「とてもベートーヴェン弾きに見えん」
華やかな音色だ。典型的なハ二―・ブロンドがそれに乗って揺れて、光を振りまいている。彼のベートーヴェンを聴いたことがないから断言出来ないが、タッチを聴くかぎりでは、かなりショパン向きの弾き手に思えた。
「俺は一度、聴いたことあるけど、すごい迫力だよ。さく也のヴァイオリンとタッチが合わなくて、それを調整するためにショパンに出たらしい」
そうしたら今度は華やかになりすぎて、やっぱりさく也の感性に合わなかったのだ。それを理由に、またしても演奏旅行を断られたらしい。
「どいつもこいつも、ソリスト向きなんだよ。何も無理してデュオする必要もなかろうに」
悦嗣はあきれたように言った。
「それを惚れた弱味って言うんだろ?」
と、英介は笑んだ。惚れた弱味に心当たりがある悦嗣は、つられて笑った。少々、複雑な気持ちだ。
プログラムの半ばまでリハーサルが済んだのを確認して、二人は席を立った。ここまで進んで、ピアニストからクレームも要望も無かったので、これ以上居る必要はないだろうし、何より悦嗣に禁断症状が出始めたからだ。つまり喫煙の。
「Wait!」
音響のいいホールに声が響き渡った。歩き出した二人が振り返る。ステージからユアンが飛び降りるの姿が見えた。長い足をフル稼動して向かってくる。ガッと悦嗣の左腕を掴むと、なにやら英語で捲し立てる。しかし悦嗣にはさっぱりわからなかった。
「何、頭沸いてんだ、こいつ?」
隣で英介がユアンの手を腕から引き剥がしながら、要点を通訳した。
「エツに何か弾けと言ってる」
何事が起こったのかと、マネジャーらしい人間が駆け寄ってきた。ピアノの調律が気に入らずユアンがキレた…と思ったようで、肩を叩いて宥める。このマネジャーもユアン同様に長身だ。
目線を上げて悦嗣が彼を見る。美形の怒った顔は迫力があった。仕事にケチをつけられたわけじゃないので、怒りの目は無視する。
「イヤだね」
「英語で言えよ。一番短い単語だぞ」
「俺の脳は日本語対応ソフトしか入っとらん。それにおまえは今日、通訳として来てるんだろ」
あきれたように悦嗣に一瞥くれて、英介はそのまま伝えた――一番短い言葉「No」
白磁の頬が一瞬にして赤くなった。またも早口で英単語が吐き出される。英介はわざとゆっくりした語調で、ユアンの言葉に答えていた。自分に語学力がないことに、悦嗣は感謝した。表情から察するに、きついことを言われているだろうことがわかる。まともに理解出来たら、悦嗣の方がキレるかも知れない。
「僕の前で弾いて見せろ! サクヤのヴァイオリンに相応しいかどうか聴いてやる! 自分の耳で確かめる!」
「ユアン、まだリハーサルの途中だろう? 終わってからにしたら? それに彼は今日、調律師として来ているんだよ。最高のコンディションのピアノで君が弾けるように」
「だからなんだ!? 別に彼の調律じゃなくても良かったんだ。自分のどこがこいつに劣っているのか、それを聴くためにこいつを呼んだんだから、聴かないと済ませない! たかが調律師のくせに、納得出来ない!」
ペチッ…と軽い音がユアンの両頬で鳴った。英介が両手でそれを挟んだからだ。彼にしては珍しく、目が怒っていた。
「エツはプロの調律師だ。その言い方は彼に失礼だろう? 少し落ち着いたらどうだ。自分を見失っているぞ」
語気は荒くないが、声のトーンは幾分低くなった。あきらかに怒っている…ということがわかるのか、ユアンのマネジャーが英介の腕に手をかけた。ユアンの頬から手を外し、一度肩で息をすると、英介はにっこりと笑った。
会話の中身はわからない。しかし彼が自分の為に怒ってくれたのだと、悦嗣にはわかった。
周りは緊張した雰囲気だが、不謹慎にもそのことが嬉しくて、口元が緩みそうになる。
「リハが終わってから話がしたいから、待ってろって言ってるけど」
英介が振り返った。悦嗣は唇を慌てて引き締める。
「とにかく煙草を吸いにロビーに行く。終わったら言ってくれ」
英介に叱られてどうにか落ち着いたユアンは、ステージに足を向けた。来た時同様、大股で戻って行く彼の後ろ姿を見送って、悦嗣と英介も入り口に向かった。
作品名:Slow Luv Op.3 作家名:紙森けい