Slow Luv Op.3
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「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」
英介がそう言った時、悦嗣の心の一隅が熱くなったのは、またあのヴァイオリンと合わせられるという高揚感からなのか、それとも――
七月に入ってすぐの仕事の依頼は、悦嗣の頭を傾げさせた。八月に行われるピアノ・リサイタルの調律で、ピアニストのご指名という話なのだが、
「ユアン・グリフィス?」
今まで仕事を受けたことのない名前だったからだ。
ユアン・グリフィス自身は知っている。前回のショパン・コンクールの覇者だった。アメリカ出身で、『リヒテルの再来』と評されていたのを、音楽雑誌で読んだことがあった。華やかな曲を得意とし、ハリウッドスターばりのルックスも手伝って、日本でも最近注目され始めている。彼に関しての悦嗣の知識は、その程度であった。知人にも彼と接点のある人物はいない。
「ああ、やっぱりエツに頼んだんだな?」
接点がありそうな人間が一人いた。曽和英介である。彼は七月に夏期休暇で帰国した。国立歌劇場が休みのこの時期、基本的にWフィルも休みに入る。
「エースケが紹介してくれたのか?」
「違うよ。彼から聞かれたんだ。夏に日本でリサイタルをすることになったから、エツシ・カノウに頼みたいって」
接点はあったが、謎は残った。悦嗣は優秀な調律師だと評価はされていたが、国際的なピアニストの仕事はほとんどなかった。楽器店に一応所属しているが大手と言うわけではなく、個人的に引き受ける時も知人関係ばかりだから、滅多にその手の仕事が回ってこないのだ。誰かの代理で、二、三回というところだった。
「どうすっかな、やっぱ代わってもらうか。英会話も出来ねえし」
一番のネックは語学である。
「通訳なら俺がするけど? ユアンとは友達だし。せっかくショパン・ファイナリストのピアノを調律出来るんだから、引き受けろよ」
「友達ねえ。おまえも国際的だな」
「もともとはさく也の友達。ジュリアードのサマー・レッスンで知り合ったらしい」
「ジュリアード! Wフィルにザルツブルグ・セミファイナリストにショパン・ファイナリスト。別世界だと思ってたものが、急に身近になってきた」
大げさにリアクションして見せる。
「エツだって、居てもおかしくなかった世界だ。俺の言うことに耳を傾け、努力してくれていたら」
英介は真顔で言った。彼は学生時代から、悦嗣にコンクールに出ることを勧めていた。一年前の六月にはブランクを承知で、自分達のアンサンブル・コンサートのピアニストとして起用した。悦嗣がそれをきっかけにして、ピアニストと言う選択肢を考えてくれればと思ったからだ。
だから言葉の端に少し棘があった。せっかく見えた道筋を悦嗣はそれ以後、利用せずにいたので。演奏会の依頼も母校の講師の件も、結局どれも断って、未だに人のピアノを調律している。
「少しはユアンに刺激されるといいんだ」
更なる棘を含んだ、らしくない英介の物言いに、悦嗣は鼻を鳴らして答えた。
作品名:Slow Luv Op.3 作家名:紙森けい