城塞都市/翅都
その昔、わたしが生まれるずっと、ずーっと前のこと。
この街はひとつの「塞城」だったのだと、おかあさんが言った。
「塞城」というのは、この街がまだ「国」と呼ばれていた頃、外からやってくる「怖いもの」を防ぐために作られた建物のことなのだそうだ。世界がある日突然めちゃくちゃになってしまった時、此処だけほとんど壊れることなく残ったのも、その「怖いもの」からたくさんの人を守ろうとした昔の王様が、此処をとても、とても丈夫に作っておいたからなのだという。
壊れきった世界で、荒野にぽつんと聳え立つ鉄鋼作りの塞城は、「大壊滅」と今でも語られるその災害の最中にあった人々の目に、とても頼もしく映ったに違いない。その威容は辛くも生き残った人々を自然とその内に呼び集めることになり、塞城の中がいっぱいになって、誰も入れなくなっても集まってくる流民は絶えることがなかった。人々は塞城の周りに家を建て、人が増えるに従って家も増え、時が経って木造のバラックが鉄筋やコンクリートに変わる頃には、無計画な増築によって張り巡らされた道は地図を作ることなど不可能な迷路へとその姿を変えていた。
荒野に聳え立つ鋼鉄の城の面影は年ごとに次第に薄くなり、やがて混沌はすべてを飲み込んで、かつて人々を守るために作られた塞城は、わたしがよく知る今の「街」になった。
街の名を、「死に行く都」と書いて「死都」と言う。
何故そう呼ばれているのかは知らない。
おかあさんは、「昔は、こんな不吉な字で書いたんじゃなかったんだけどね」と。
そんなことを、言っていたけれど。
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そうしてわたしにそんなことを言ったおかあさんも、今はもう居ない。
死んだわけではない、と思う。ただある日、朝起きたら突然居なくなっていた。
煙のように居なくなる、というたとえがあるけれど、まさにそれだ。おかあさんは、ほんとうに煙のように消えてしまった。
居なくなって、2年になる。
優しかったことだけ覚えてる。おかあさんの顔も声も、わたしはもう思い出せない。
「死都(シト)、落霞紅(ラオシアホン)、葉緑(シェリュウ)、午夜藍(ウーイェラン)……」
わたしが今居る娼館のある色街は、ダウンタウンのメインストリートを北側に一本も二本も外した小さな横丁にある。夜はダウンタウンの何処よりも騒がしい、基本的に真夜中にしか呼吸をしない場所だ。
その反動の所為か、昼間の花街は大抵気だるい雰囲気に包まれている。雨であれば尚更で、その雨が今日は夜まで続くとラジオで予報を聞いた店長のウォン大哥(タークォ)は、しかめっつらで売り上げが落ちることをぼやいて、「どうせ今日は客が少ねぇだろうから、あんまり頑張りすぎるな」と、掃除をしていたわたしに長めの昼休みをくれた。
せっかくの長いお休みなので、わたしは「まだ試作段階なんだよね」という木の実クッキーを作るツィファン姐さんの手伝いをした後で、お昼のご飯を特別ゆっくり食べて食器を洗った。それから台所続きになっている酒場に行き、お仕着せのエプロンを外して絞っていたワンピースの袖を戻す。
夜になれば大勢のお客さんや姐さんたちが大騒ぎをするカウンターの内側に置かれている、折り畳みできる小さな椅子の上が、普段のわたしの居場所だった。ワンピースの裾を整えながらその椅子に腰を下ろし、すぐ脇の窓に目をやると、細い糸のような雨がざぁざぁと泥沼みたいになってる地面を叩き続けているのが見える。
ここ最近はずっとこんな天気続きで、お店の姐さんたちの話によれば、こういうのは「秋の長雨」と言うのだそうだ。「一雨ごとに寒くなって嫌だねぇ」とはお店で一番古株のアイシャ姐さんが言ったことで、確かにこの頃は雨が一日降るたびにどんどん寒くなるような気がしていた。実際、朝に外へゴミを出しに行くとき、息が夜明け前の冷えた空気に白く濁って見えるなんていうのも、結構よくあることになりつつある。
ついこの間まで、真夜中でも蒸し暑くてふぅふぅ言ってたはずなのに、季節の移り変わりって曖昧で、しかも早いと思う。秋はわたしの知らない間に来ていて、そして同じように知らない間に過ぎていってしまうものらしい。季節が目に見えるものであればいいのに、とわたしは溜息をついて、傍らの壁を見上げる。
暇なとき、わたしの椅子のすぐ脇の壁に貼ってある世界地図にひとつひとつ、わたしの知らない街の名前を書き込んでいくのは、わたしの最近一番の楽しみだった。今はもう大分擦り切れてきた地図は、ここに連れて来て貰ったばかりの頃、この娼館の持ち主である大爺(ターイェ)が「子供は勉強するもんだ」と言って、皺一つなくピンとなるよう、ちょっと苦労しながら貼ってくれたものだ。
書き込む街の場所も名前も、大爺が教えてくれる。今まで地図に書き込まれた街の名前は八個で、わたしが教えてもらった街の名前と位置とをちゃんと覚えたら、大爺がその次の街の名前を教えてくれる決まりだった。
街は、今の世界にちょうど十二個あるそうだ。全ての街の名前を覚えれば大爺からご褒美がもらえることになっていて、そうして地図を睨みながら眉間に皺を寄せて街の名前を暗記しつつ、お行儀が悪いけれども、欠伸交じりに椅子の上で抱えたひざに頬杖をついていたら、業者さんや娼館の従業員専用の出入り口である裏口のドアチャイムがジリリリンと鳴ったので、わたしは冗談抜きに吃驚して飛び上がってしまった。
「あ、大爺!いらっしゃいませ!」
「おー。久しぶりだな、レベッカ。元気してたか」
慌ててカウンターから外に出て裏口に応対に出ると、大きな鞄を抱えた大爺が、雨を避けた軒先の壁にもたれながら大あくびをしていた。
大爺は、大陸民族の人が大抵そうあるような黒髪ですんなりと背が高く、整った優しい顔立ちをした男の人だ。おかあさんが居なくなった朝、どこからともなく現れて不安に泣きじゃくるわたしを宥め、此処へと連れてきてくれた上に、この娼宿での仕事までくれた恩人でもある。大爺がここにつれてきてくれなかったら、わたしはきっとこの街に住んでいる浮浪児の多くがそうなるように、どこかの道端でとっくの昔にのたれ死んでいたに違いないので、本当に感謝している。
娼宿で働くと言っても、わたしはまだこどもなので、ここで働いている姐さんたちがそうしているように、お金で体を売っているわけではない。いつかはそうすることになるのかもしれないし、わたしとしては一向に構わないのだけど、大爺曰く「ガキがそんなこと考えるんじゃねーよ」なのだそうだ。大爺にとって、十二歳はやっぱりまだ子供であるらしい。
なので此処でのわたしの仕事は、やってくるお客さんにお酒を運ぶだとか、台所の手伝いだとか、掃除だとか、そういうこまごまとした雑用に限られていた。お店にはわたしの他に子供は居らず、時々そういう子供が好きなお客さんに酔っ払って絡まれることもあるけれど、わたしが怖がって泣き出せば、大抵は冗談にするか真剣に謝ってくれるような良いお客さんばかりだったし、本当に嫌なお客さんでも、いつもお店中の姐さんたちや兄さんたちがしっかりと目を光らせていてすぐ助けに来てくれるから、危ない目になんか遭いようがない。