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京都七景【第二章】

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   【第二章 東山安井に立つ(2)】

 わたしは、一人、また一人と友人が帰省していく中を、大学図書館に通いながら京都の町でぐずぐずしていた。

京都の夏は心底暑い。暑苦しくて、ふとんの上に寝られないどころか、畳の上でも背中が燃えるように熱くなる、じりじりたれる寝汗と、刑に責め苛まれる囚人のごとき夢にうなされ、何度目を覚まし、どれほど体力を消耗することか。
ならば、京都ほど暑くはないわが故郷に帰省し、涼しい木陰に寄って調べ物をするほうが、いかに賢く、また研究も捗るというものではないのか。
なるほど、それも一理ある。一理はあるが二理はない。実は、今回、この暑さと孤独に耐え抜けば、何かしら研究テーマのヒントが得られそうな予感がしているのである。だからと言って、わたしを研究熱心な学生だと即断はしないでいただきたい(もちろん、この時点では、ということです。今後精進して研究熱心な学生を目指しますので、そのときは即断していただけると幸いです)。もっとも、わたしも近年流行のフランス文学を専攻する学生の端くれとして、それなりに力のこもった卒業論文を書きたいという見栄くらいは持っている。人を「あっ」とは言わせられまいが、せめて「うっ」とも言わせないだけの論文は書きたいと願っている。だから今日も、西日に背を焼かれるまま図書館に居残り、手垢のべとべとついた机に両ひじをつき、ルソーの’Les Confessions’(「告白」)の原書を前に、片手でしきりと辞書を繰っているのである。
だが物事にはそれなりに潮時というものがある。わたしにもその潮時は例外なくやってきた。わたしはそこここにクマゼミの声を聞くと、早々に帰省した。クマゼミはうるさいのである。

 さて故郷に帰ったわたしは、ここでも帰省した学生の例にもれず(もれない人の少なからんことを!)、帰りたては家族に歓待され、数日ごろごろしていると「これやってくれない」と母に家事を手伝わされ、引き続きぼうっとしていると「何かすることはないのか」と父に邪魔にされ始める。ここが再び潮の引き時である。わたしはカレンダーを見た。いつの間にか八月十四日である。わたしは家族に十六日に京都に戻ることを告げる。告げると不思議なことに、「もう二、三日ゆっくりしていったらいいのに」、と母が引止めにかかる。私は十六日に約束があるからと話し、予定は変えられないことを宣言する。

「でも台風が二つも来てて、十六日に近畿地方に上陸するらしいよ」と弟が駄目押しにかかる。わたしは驚きあわて、弟を押しのけテレビの天気予報を食い入るように見つめる。
なるほど、東シナ海で別々に発生した台風が二つ、まるで「京都で会おうぜ」と示し合わせたかのような予想進路をたどっている。中型の台風十六号は今沖縄を暴風圏に巻き込み、今後は九州へ向うことが予想されている。早く進めば十五日の午後には近畿地方を通過しそうだが、とにかく時速十キロといやに歩みがのろい。もう一つの小型の台風十七号は太平洋の遥か沖合いで四国と紀伊半島の間あたりに向かって北上する気配を見せている。このままいけば十六日の午後あたりに近畿地方で二つの台風がぶつかり合うことは必定である。

「ね、これでわかったでしょ」と弟が胸を張った。

 わたしは、台風を理由に引き止めにかかる家族を、とりあえず明日の天気予報を見た上で決断するから、となだめたものの、十五日になっても状況は改善されないまま、事態はわたしの期待をよそに悪化の一途をたどって行く。わたしは仕方なく十六日の朝の天気予報を見て判断するからと家族をなだめたが、今度は家族も承知しない。こんな天気だから誰も来るはずがない、行くほうが間違っている、と切り崩しにかかる。こうなると、五山送り火の準備が進んでいる担当責任者と京都市長の「できるだけ実行する方向で善処したい」というコメントだけが頼りである。市長もこう言っているのだから友人たちも来ないはずがない。自分だけ行かないのは今回の場合、ずいぶんと気が退ける。とにかく行って見るだけいって見るよ、それに大学の図書館でどうしても調べておきたいことがあるんだ、とだけ言い残して、わたしは無理やり下宿に戻って来てしまった。

 わたしが戻ったのは午後の二時ごろであった。京都の町は存外静かである。雲の流れが速く、やや風は出ているとはいえ、薄日がさしてまことに穏やかな空合い。これなら五山送り火も実行されるに違いない、そんな気がした。
わたしは辺りを少し散歩して大丈夫そうだなと判断してから下宿に戻り、神岡のマンションに行く時間を待った。集合時間は六時である。ここを五時半に出ればまずたいてい間に合う距離である。わたしは何だかほっとして、少し昼寝でもしようかと畳に横になった。すると、おあつらえ向きに睡魔が襲って来て、わたしは眠りに沈み込んだ。

 それからしばらく時間が過ぎた。ふと目覚めて時計を見ると、4時半を回っている。ところがどうも様子が一変している。外は真っ暗で強風がびゅうびゅうと吹いている。おまけに雨がびしびしと窓をたたいている。これはまずい。わたしは急いでラジオをつけて天気予報を聞いた。それによると、二つの台風はどうやら午後七時前後に京都を直撃するらしいとのことであった。どう考えても、今日の五山送り火は無理だろう。京都市長もインタビューに答えて、午後六時の時点で最終判断を下したいと言っていた。

 ああ、これじゃあ、だめだろうな、今年は残念ながら中止か、自分は家族の言うことも聴かず、ずいぶん無茶なことをしたものだ、という後悔の念がこみ上げてきた。この上はすぐにも故郷にとって返そうかと思ったが、いや、待てよ、このまま帰れば家族には「そら見たことかと」言われるのは目に見えている。それに、もし仲間が集まっているのなら、あとで義理を欠くといわれても申し開きができないぞ、とりあえず神岡のマンションに行って様子だけは見ておかないとな、と思い直して、やはり神岡のマンションを訪ねてみることにした。

 マンションまでの道のりは、それはもう悲惨なものであった。傘が飛ばされそうになったことは数知れず、仕方なく傘を閉じて歩けば、雨が強風に混じってざあっと吹き付け、足元はふらつき、髪からはぼたぼたと雨が流れ、ズボンはひざから下がびしょぬれになって脛にくっつき、はなはだ気持ちが悪い。こんなことまでして送り火を見る意味があるのかといぶかりながら、糺の森を見る。すると、森の木々は風にあおられ左右に激しく揺れていよいよ不穏を掻き立てる。わたしはそちらに目をやらぬようにして神岡のマンションの六階を目指した。

 マンションはすぐに見つかった。前に来たことがあるからではない。近くに高い建物がほかにないからである。見忘れていても目立つのですぐにそれとわかる。わたしはエントランスを入って《ちくしょうめ、こんなときに気取った名前をつけやがって、入口と書けば済むことじゃないか》とわけのわからぬ八つ当たりをして、しゃれてはいるが、落ち着けないことはなはだしい鳥かごのようなエレベーターで、最上階の六階に上がった。
作品名:京都七景【第二章】 作家名:折口学