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ただ書く人
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熟年法事件

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 地上八階の窓の少ないビル。その最上階、胸の高さにある数少ない窓のひとつから首相は腰を屈めて門の前に集まる人だかりを見下ろした。
「今日も老人たちですか」
「ええ、いつものです」秘書官は正面のコンピュータの画面から目を離さずに答えた。
「毎日飽きないものですね。彼らの気持ちは大いにわかりますが……。わたしたちも苦渋の決断でした」と言ってから首相は窓から離れ秘書官に顔を向けた。「なんとか理解してもらわなければなりません」
「そのわたしたちの『苦渋の決断』のおかげで、老人たちには時間も体力も十分に余っているんです。ですから毎日ここに集まることでいろいろと発散しているのでしょう。それと、老人たちは理解していないのではなく、気に入らないんですよ」秘書官はちらりと首相を見てからまたすぐに眼の前の画面に視線を移した。
「わかっていますよ。なんとかして不満や怒りを収めてもらいたい、ということです」
「それは無理でしょうね」

 二年ほど前に施行された高齢者救済に関する一連の法。それはまとめて「熟年法」と呼ばれている。当初、資本主義国家という名目のある国で、その法案は当然否決されるものと思われていたが、議会および国民投票において賛成多数で可決された。
 要点をまとめると以下のような法だ。

・すべての国民の財産は七十歳になった時点で国が没収する
・七十歳を超えて成した財産は没収の対象とならない
・七十歳未満で子などに財産を相続する場合は相続にかかる税を軽減する
・七十歳以上の国民には家族(配偶者、および、未成人の扶養家族)の数に応じて無償で適当な広さの住居が提供される
・七十歳以上の国民の医療、介護、公共交通機関の利用などにかかる費用はすべて無償とする
・七十歳以上の国民には前々年度の公務員平均給与の六割相当の年金が毎月支払われる

 これには反発も多かったのだが、一方では老後に十分に余裕を持った生活ができることから多数の支持を得たのである。そして国の経済は活性化しつつあった。

 熟年法が施行されてから二か月後、当時の首相が急死し副首相だった現首相がその座に就くと、老人たちの憤慨の矛先はこの首相となった。議会場や執務室のあるこのビルに、首相の自宅に、連日老人たちが押しかけ怒号を上げて罵声を浴びせる。脅迫めいた電話が引っ切り無しにかかってくる。一日に何千通もの電子メールや手紙が届く。それに対して首相は、いくつかの反対意見、といってもその多くは感情に理屈を薄く重ねただけの意見だが、それらを取り出してはそれらに対するコメントをマスコミを通じて、あるいはインターネット上で公開していた。
 首相は政治家のくせに真面目すぎるし、人が良すぎる。この首相と十年近くの付き合いがある秘書官は、首相のことを常々こう思っていた。首相になってから約一年半。首相はひどく痩せ、肌や髪からは健康的なつやが失われ、ずいぶんと老けこんでしまった。
「わたしだってあと十年。明日は我が身です。わたしは今すぐにでも引退してあちら側に行きたいですけどね」と首相は自嘲し、それから秘書官に声をかけた。「さあ、昼食にしようか」

 首相は、彼が首相になって以降妙に優しくなった妻が作った弁当を広げ、秘書官も同様に弁当を広げた。以前は外食をしたり誰かが手配した弁当を食べたりしていたのだが、いつの間にか両者とも家族が作った弁当を食べるようになっていた。そしていつも通り、首相は食べながら電子メールや電話、手紙で届いた意見をまとめたデータを確認する。
「最近は三行程度読めば何が書いてあるのかわかるようになってきましたよ」
「どれも同じようなことしか書いていませんからね」
「そうですね。責任を取れ、だとか、辞めろや死ね、が多いですね。これではわたしもいつか殺されてしまうかな。まあ、その時は君や他の者を巻き添えにしないように気をつけますよ」
首相が「わたしも」と言ったのには理由があった。前首相は睡眠薬の過剰摂取により死亡したのだが、それは暗殺とも言われていたのだ。
「まずは自分が自分に殺されないように気をつけてくださいよ。最近はちゃんと寝ていますか」
「まあ、そこそこに、ですね。いっそ死んでしまった方が楽なのですが……」
秘書官はその言葉には何も応えず、ひと口大の鶏の唐揚げを口に突っ込んだ。
 辞めてしまいたい。死んでしまいたい。こういう気持ちはわからないでもない。そのストレスは自分では想像できないほどだろう。しかし、現在この人物以外に首相を務められる者はいない。秘書官は昼食の時間すら老人たちに責められる首相を哀れんだ。
 秘書官と同様の目でこの首相を見ている国民も大勢いた。健康的で実際の年齢よりも若く見られる外見。口数こそ少ないが、口を開いた時は熟考した言葉をはっきりと伝える。前首相の側にあっては有能な補佐としてのイメージが強く、国民の人気が高かった。トップに立つタイプの人間ではないのだが、前首相の死後、周囲の議員たちもマスコミも当然彼が次の首相になるものと考え、皆が望むなら、と彼は首相に就任したのだった。就任以降、見る間にやつれていく姿。国民の声をいちいち拾ってはそれに対するコメントを出す生真面目な性格。そんな首相を哀れみ、応援しようという国民は多かった。この首相だからこそ、現在は一部の老人たちが騒いでいるだけのことで済んでいるのだ。
「不満の声も外の老人たちもずいぶんと減ってきましたよ」秘書官は弁当を食べ終えてから首相に言った。
「そうですか。そんなに減ったようには見えませんけどね」と言って首相は再び窓から老人の集団を見下ろした。「あれを一掃できたらいいのですが……」
「それは無理でしょう。批判というのは必ず出てくるものですから」
「彼らの前で責任を取ると言って死んでやりますか。そうしたら彼らもいなくなるかもしれませんよ」
「そういうことは言わないでください。あまり気にせずに」
「でもね、わたしも本当は辞任したいし死んでやりたいですよ。しかし辞任なんてそれこそ無責任ですよね。あの老人たちを後任に押し付けることなんて、とてもじゃないができやしないよ。もちろん死ぬことも無責任だ。だから事故にでも遭えばいいのに、と考えるんですよ。突然隕石が降ってきてわたしの頭に当たってくれないですかね。これも無責任な考えですが」首相は淡々と言葉を続けた。
「そう簡単に隕石は降ってこないでしょうね。さあ、十五時からの会談は忘れていませんか。そろそろ準備をしましょう」

 会談に向かう首相が乗った自動車に数十人の老人たちが殺到し、警備員たちがそれを制止する。いつもの光景だった。汚い言葉が投げつけられ、石や杖、靴までも投げつけられる。
金返せ。
止まれ。
辞めろ。
責任取れ。
泥棒。
くそじじい。
死ね。
 その声を聞いているのか、目を伏せて暗鬱な表情をした首相を乗せた自動車は、すぐにその場を通過して行った。
「気にしないことです」秘書官がこれもいつも通りの言葉を首相にかけた。
作品名:熟年法事件 作家名:ただ書く人