トレーダー・ディアブロ(2)
二〇〇五年 七月 三十日
アメリカ、ニュージャージー州ジャージーシティー。
ニューヨークのウォール街が米国の金融の全てを仕切っていたのは昔の話。インターネットの発達により、金融会社は敢えて地価の高いウォール街に拠点を置く必要性が無くなり、この時までに多くの会社は本社機能をミッドタウン、ニュージャージー州やブリッジポートへと移転させていた。大手金融機関では、JPモルガン・チェースが最後までウォール街に残っていたが、二〇〇一年十一月に本社ビルを売却してしまった。この為、それ以降、最早ウォール街には純米国資本の大手金融機関の本部は存在しない。
グレリアのファンド、ニューホライズンもゴールドマン・サックス、チェース・マンハッタン、リーマン・ブラザーズ、メリルリンチといった大手金融機関が拠点を置くこのジャージーシティーのダウンタウンに拠点を構えていた。
彼のオフィスはハドソン川に面した四十二階建てのゴールドマン・サックス・タワーと呼ばれるオフィスビルの三十八階にある。
グレリアはこの日、オフィスの社長室に一人籠って先月入社してきた新人トレーダー達のトレードレポートに目を通していた。
彼は焦っていた。
ニューホライズンは運用開始以来最大のピンチを迎えていたからだ。
彼のファンドは二〇〇五年に入ってから一本調子に上がり続けた原油相場の天井が近いと考え、三ヶ月前からニューヨークのマーカンタイル取引所の原油先物相場を空売りしていた。つまり、原油相場が下がる方に賭けたのだ。
取引開始当初は彼らの予想通り、史上最高値の七十ドル付近から相場は下がり、取引は順調に進んでいる様に見えた。しかし、その後原油相場はすぐに上昇に転じ、あっという間に史上最高値を更新して上がってしまったのだ。
通常のトレードルールに則れば、その時点で取引を決済し、マイナスを最小限に抑えるものだが、この時のグレリアはマイナスで取引を決済させずに取引を継続させてしまった。ひょっとしたら、今、取引を終了しようとしているこの時点が原油相場の最高値で、明日から値段は下がるのではないか……。ひょっとしたら、今はマイナスの売りポジションも、値段が下がってプラスに転じるのではないか……。そういう思いが、彼の決済のタイミングを遅らせてしまったのである。そして、こういう根拠のない希望的観測で行うトレードが、いい結果に結びつく事はない。グレリア自身もそれは何度も経験した失敗の筈だった。
しかし、その後も原油相場は上昇を続け、彼が取引を終了したのは、ニューホライズンが取り返しの付かないマイナスを抱えた後だった。
グレリアは想定内のマイナスのうちに取引を終了させなかった事を悔やんだ。しかし、いくら彼が悔やもうと、過ぎ去った時間は元には戻らない。彼の抱えたマイナスの総額はニューホライズンの運用資産の約半分、十億ドルにも及んだ。日本円にして約八百五十億円になる。
彼は抱えたマイナスの大きさに目眩を覚え、食欲が無くなり、トイレや歯磨きをする時に吐き気を覚える様になった。
だが、それでも彼はファンドの運用を止めなかった。いや、止める事が出来なかった。
彼は、逆に残った半分の運用資産で、何とかマイナスをとり返せないか考えた。グレリアはスペインから単身アメリカに渡り、この業界一本で二十年間生きてきたのだ。今更他の仕事で飯を食うつもりはなかった。
しかし、一度減らしてしまった資産を取り戻すのは容易な事ではない。半分に減った資産を元に戻すには、残りの資産を倍にしないといけないからだ。
しかも彼のファンドには、四ヶ月に一度、投資家達に運用結果をレポートで提出する義務があった。彼が原油相場を決済したのが、前回のレポートから一ヶ月後、つまり後三ヶ月で今回の取引のマイナスを穴埋めしないと、今回のマイナスが投資家達に知られてしまう事になるのだ。
短期間にこれだけのマイナスを出したファンドにそのまま金を預けておく馬鹿はいない。当然出資者は彼のファンドから一斉に資金を引き上げ、彼のファンドは破綻の危機に晒される事だろう。しかし、彼や現在彼が抱えているトレーダー達には、残った資金を運用する自信が無かった。今回の原油相場で自分達が大きな損失を出した事も理由の一つだったが、半分になった資金を短期間で倍にするには、それ相応のリスクを背負わなければならないからだ。下手をすれば、残った資金は更に目減りし、最悪の場合資金が無くなってしまう事も考えられる。
資金が無くなったとなれば、いくらファンドのリスクを熟知しているニューヨークの投資家達といえども黙ってはいない。中にはニューホライズンを相手に裁判を起こす者もいるだろう。
ファンドの損失は投資家の自己責任となる。それは当然の事だが、もし万が一運用資金の全額を失ったとすれば話は別だ。そして、グレリアの抱えるトレーダーには、投資家と法廷で戦う事になるリスクを冒してまで損失を取り戻そうとする者はいなかった。
そういう事情があり、彼は急遽トレーダーを募集せざるを得なくなったのだ。
彼は応募してきたトレーダー達全員に、特定の証券会社のデモ口座を使って一ヶ月のバーチャルトレードをさせた。
バーチャルトレードとは、所謂仮想の資金を使ったトレードシミュレーションだ。しかし、バーチャルと言っても資金が現実の物でない事以外は、全て実際のマーケットと何ら変わらない。彼は自分のファンドの命運を託すトレーダーをこのバーチャルトレードで見極めるつもりだった。そして、その為に彼は貴重な残り三ヶ月のうち、一ヶ月を更に使ってしまった。
この一ヶ月、ニューホライズンの資産は横ばいで推移していた。グレリアのお抱えトレーダー達は今回の損失に完全に萎縮してしまって、通常のリスクを負った取引も出来なくなっていたのだ。
グレリアは焦りながら一人一人のバーチャルトレードの結果レポートに目を通していた。しかし、レポートのトレード結果はどれもパッとしない物ばかりだった。
それもその筈である。世の中に、腕の良いトレーダーがそんなに転がっているものではない。本当に腕の良いとレーダーなら、既にどこかのファンドに引き抜かれているか、自分で独立してファンドを立ち上げている筈だ。言い換えれば、自分の腕に自信が無いからこそ、サラリーマンとして組織の一員になり、将来独立する為に勉強しようとしているのが新人トレーダーなのだ。
グレリアはレポートを読みながら半ば諦めかけていた。
しかし、その時だった。
彼の手が、一人のレポートを見て止まったのだ。
「何だ……? これは……?」
彼は顔を顰めた。
そこには、他の者と明らかに違う運用成績が書かれていた。
グレリアが新人トレーダー達に与えた架空の資金は十万ドル。約八百五十万だ。それを各人に一ヶ月間運用させていたのだが――。
「百八十万ドルだと……!」
アメリカ、ニュージャージー州ジャージーシティー。
ニューヨークのウォール街が米国の金融の全てを仕切っていたのは昔の話。インターネットの発達により、金融会社は敢えて地価の高いウォール街に拠点を置く必要性が無くなり、この時までに多くの会社は本社機能をミッドタウン、ニュージャージー州やブリッジポートへと移転させていた。大手金融機関では、JPモルガン・チェースが最後までウォール街に残っていたが、二〇〇一年十一月に本社ビルを売却してしまった。この為、それ以降、最早ウォール街には純米国資本の大手金融機関の本部は存在しない。
グレリアのファンド、ニューホライズンもゴールドマン・サックス、チェース・マンハッタン、リーマン・ブラザーズ、メリルリンチといった大手金融機関が拠点を置くこのジャージーシティーのダウンタウンに拠点を構えていた。
彼のオフィスはハドソン川に面した四十二階建てのゴールドマン・サックス・タワーと呼ばれるオフィスビルの三十八階にある。
グレリアはこの日、オフィスの社長室に一人籠って先月入社してきた新人トレーダー達のトレードレポートに目を通していた。
彼は焦っていた。
ニューホライズンは運用開始以来最大のピンチを迎えていたからだ。
彼のファンドは二〇〇五年に入ってから一本調子に上がり続けた原油相場の天井が近いと考え、三ヶ月前からニューヨークのマーカンタイル取引所の原油先物相場を空売りしていた。つまり、原油相場が下がる方に賭けたのだ。
取引開始当初は彼らの予想通り、史上最高値の七十ドル付近から相場は下がり、取引は順調に進んでいる様に見えた。しかし、その後原油相場はすぐに上昇に転じ、あっという間に史上最高値を更新して上がってしまったのだ。
通常のトレードルールに則れば、その時点で取引を決済し、マイナスを最小限に抑えるものだが、この時のグレリアはマイナスで取引を決済させずに取引を継続させてしまった。ひょっとしたら、今、取引を終了しようとしているこの時点が原油相場の最高値で、明日から値段は下がるのではないか……。ひょっとしたら、今はマイナスの売りポジションも、値段が下がってプラスに転じるのではないか……。そういう思いが、彼の決済のタイミングを遅らせてしまったのである。そして、こういう根拠のない希望的観測で行うトレードが、いい結果に結びつく事はない。グレリア自身もそれは何度も経験した失敗の筈だった。
しかし、その後も原油相場は上昇を続け、彼が取引を終了したのは、ニューホライズンが取り返しの付かないマイナスを抱えた後だった。
グレリアは想定内のマイナスのうちに取引を終了させなかった事を悔やんだ。しかし、いくら彼が悔やもうと、過ぎ去った時間は元には戻らない。彼の抱えたマイナスの総額はニューホライズンの運用資産の約半分、十億ドルにも及んだ。日本円にして約八百五十億円になる。
彼は抱えたマイナスの大きさに目眩を覚え、食欲が無くなり、トイレや歯磨きをする時に吐き気を覚える様になった。
だが、それでも彼はファンドの運用を止めなかった。いや、止める事が出来なかった。
彼は、逆に残った半分の運用資産で、何とかマイナスをとり返せないか考えた。グレリアはスペインから単身アメリカに渡り、この業界一本で二十年間生きてきたのだ。今更他の仕事で飯を食うつもりはなかった。
しかし、一度減らしてしまった資産を取り戻すのは容易な事ではない。半分に減った資産を元に戻すには、残りの資産を倍にしないといけないからだ。
しかも彼のファンドには、四ヶ月に一度、投資家達に運用結果をレポートで提出する義務があった。彼が原油相場を決済したのが、前回のレポートから一ヶ月後、つまり後三ヶ月で今回の取引のマイナスを穴埋めしないと、今回のマイナスが投資家達に知られてしまう事になるのだ。
短期間にこれだけのマイナスを出したファンドにそのまま金を預けておく馬鹿はいない。当然出資者は彼のファンドから一斉に資金を引き上げ、彼のファンドは破綻の危機に晒される事だろう。しかし、彼や現在彼が抱えているトレーダー達には、残った資金を運用する自信が無かった。今回の原油相場で自分達が大きな損失を出した事も理由の一つだったが、半分になった資金を短期間で倍にするには、それ相応のリスクを背負わなければならないからだ。下手をすれば、残った資金は更に目減りし、最悪の場合資金が無くなってしまう事も考えられる。
資金が無くなったとなれば、いくらファンドのリスクを熟知しているニューヨークの投資家達といえども黙ってはいない。中にはニューホライズンを相手に裁判を起こす者もいるだろう。
ファンドの損失は投資家の自己責任となる。それは当然の事だが、もし万が一運用資金の全額を失ったとすれば話は別だ。そして、グレリアの抱えるトレーダーには、投資家と法廷で戦う事になるリスクを冒してまで損失を取り戻そうとする者はいなかった。
そういう事情があり、彼は急遽トレーダーを募集せざるを得なくなったのだ。
彼は応募してきたトレーダー達全員に、特定の証券会社のデモ口座を使って一ヶ月のバーチャルトレードをさせた。
バーチャルトレードとは、所謂仮想の資金を使ったトレードシミュレーションだ。しかし、バーチャルと言っても資金が現実の物でない事以外は、全て実際のマーケットと何ら変わらない。彼は自分のファンドの命運を託すトレーダーをこのバーチャルトレードで見極めるつもりだった。そして、その為に彼は貴重な残り三ヶ月のうち、一ヶ月を更に使ってしまった。
この一ヶ月、ニューホライズンの資産は横ばいで推移していた。グレリアのお抱えトレーダー達は今回の損失に完全に萎縮してしまって、通常のリスクを負った取引も出来なくなっていたのだ。
グレリアは焦りながら一人一人のバーチャルトレードの結果レポートに目を通していた。しかし、レポートのトレード結果はどれもパッとしない物ばかりだった。
それもその筈である。世の中に、腕の良いトレーダーがそんなに転がっているものではない。本当に腕の良いとレーダーなら、既にどこかのファンドに引き抜かれているか、自分で独立してファンドを立ち上げている筈だ。言い換えれば、自分の腕に自信が無いからこそ、サラリーマンとして組織の一員になり、将来独立する為に勉強しようとしているのが新人トレーダーなのだ。
グレリアはレポートを読みながら半ば諦めかけていた。
しかし、その時だった。
彼の手が、一人のレポートを見て止まったのだ。
「何だ……? これは……?」
彼は顔を顰めた。
そこには、他の者と明らかに違う運用成績が書かれていた。
グレリアが新人トレーダー達に与えた架空の資金は十万ドル。約八百五十万だ。それを各人に一ヶ月間運用させていたのだが――。
「百八十万ドルだと……!」
作品名:トレーダー・ディアブロ(2) 作家名:砂金 回生