Le Diable
眩さに目覚めると、頬は冷たい床に触れていた。
格子窓から青白い月光が暗闇の部屋に射し込んで、痛々しいほどくっきりした十字の影を倒れた身体に刻み付ける。窓の桟には柘榴の置物が歪な月のように輝いた。半分に割られた果実の模造は、敷き詰められた小さなガーネットの赤い粒を金の皮が包んでいる。
──またか。
真っ先に壁際のベッドへ首を向ける。そこには同居人の膨らみがある。耳を澄ませて彼の寝息を確かめ、……ほっと息を吐いた。
全身にかかる気怠い重力に逆らい、起き上がって服を見る。シャツの腹に掌ほどの濃い染みがあり、同系色の小さな斑が左袖にも付着していた。暗がりではシャツに付いた色彩は判別できなかったが、深緋に近い色であることは見当がついた。何故なら、最近ずっとこういったことが続いていたからだ。気がつくと深夜の床に突っ伏していて、服が真新しい血で汚れている。その痕は人間と思わしき馴染みある色の時もあれば、透明感のある鮮やかなワイン色の時もあった。この現象が起き始めた当初は少なからず動揺したが、全くの無意識下に繰り返されると実感を伴わずに麻痺してくる。思考の糸口がうまく掴めないせいもあるだろう。右手をきつく握ったり開いたりしながらも、誰かを傷つけたのか或いは──と考え始めると、触覚が記憶を探る前に回路が途絶えてしまう。その代わり、時によって赤の色合いが異なるのは人間以外の動物も混じっているからだろうと、妙に的外れで冷めた推測をした。
とりあえず、同居人を起こさないように汚れた服を洗わなければならない。身に覚えがない故に、痕跡を消し去ることで記憶と事実の辻褄を合わせてやり過ごすのが、ひとつの習慣になりつつあった。足音を忍ばせて寝室を抜け出し、洗面台に湯を張ってシャツを浸す。赤はオレンジがかった靄を燻らせながら透明な液体をうっすらと染めていく。今日は何の血だろうな、とぼんやり考えたが、専門知識のある医者でも血液嗜好者でもないのだから判るはずがない。
温められて立ち上った金属質な臭いに触発されたか、夕べに聴いたマイヤベーアのオペラが脳内に再生する。「Robert le Diable」主人公の男が、悪魔と契約を交わした父親によって魔の道に引きずり込まれる物語だ。幕開けから刺激的な享楽と血生臭い場面が展開する舞台だったが、何よりも、主人公へ押し寄せる魔性の父の凄まじい執愛の低音が耳の奥にこびりついた──Tu ne sauras jamais à quel excès je t’aime !(お前には決して解るまい、俺がいかにお前を愛しすぎているか!)以前ならば聴き流したであろう詞が、自身の奇異な行動に取り留めのない連想を喚び起こす。何か人知を超えたものが意識の綻びに忍び込んでいるのではないか……否、自らの行いを直視しないから、無形のものに形を与えて責任を転じようとするのか。C’est dans mes bras, C’est à moi que tu reviendras.(これは俺の腕、お前が戻ってくる俺の腕だ)気分が悪い。脳がランダムに汲み上げてくる音の断片に引っ掻かれて、意識の空白を振り回される……。
何処にも着地できない空想の悪酔いを押し退けながら血の痕を隠滅し、浄化された服を迷妄と共にゴミ箱へ切り捨てる。シャワーを浴びて清潔な長袖のTシャツに着替え、部屋に戻ると真っ直ぐに同居人のもとに向かった。眠りを妨げた気配はなく、胸を撫で下ろす。
ベッドの縁に腰を卸して寄り添うと、闇夜にくるまる姿に視線が縋った。
枕元から垂れ下がる長い黒髪は、月かげを浴びた澱みない清流だ。光はその寝顔にまで及ばなかったが、心の内には彼の面差しが浮かび上がる。ペルシアの青年のような、濃厚な甘美の憂いを帯びた造形の中に豊かな睫毛で縁取られた瞼。その瞼を開けば幅の広い二重が描かれ、灼熱の珈琲よりも更に黒い色の、神秘を底に沈めた瞳が現れる。
──暁。
声に出さず、半ば祈る感情でその名を呼んだ。
同居人と称しているが、実を言ってしまえば恋人である。同性の親密すぎる関わりは周囲の目に気を殺ぐものだったが、彼の性質には芯の強さに裏付けられた落着きがあり、二人の関係そのものは憂慮とか軋轢といった影から遥かに遠く離れた、平穏で充足したものだった。朝の目覚めには彼が淹れた挽きたてのモカを飲み、仕事に行く。帰宅した夜には四十二度の風呂に浸かって一日の疲れを解し、舌に合った食事とささやかな会話を交わす。週末の憩いには共通の趣味であるクラシック音楽を聴き、互いの体温をゆっくりと分かち合う──お前は熟すのに時間のかかる果実だ、と執拗なまでに焦らされながら……。そうして肌の熱が溶け合った後、彼の腕の中で訪れる穏やかな眠りは、愛と呼ぶよりも安らいという名の深い快楽に近かった。この部屋にあるのは、小さな楽しみの層を重ねた、幾種類かの脳内麻薬を僅かずつに享受する何気ない幸福なのである。
自分の夢中遊行は常軌を逸したものであろうと思う。精神の検査を受けるべきなのだろうが、もしも、と想像すると踏み出せなかった。このままでは、目覚めれば監獄ということもあり得ると、頭では解っている。いつか服を染める血痕が暁のものになりはしないか、それを非常に恐れてもいた。けれども病院に通うとなると、最初は誤魔化せたとしてもいずれ暁に話さなくてはならない。それは避けたい。──手前勝手な言い分は見渡す限りの矛盾だらけだ。彼を信頼していないわけではない。ただ、いわゆる平凡の幸福というものが、いかに絶妙な均衡の上に成り立つものか……一種の完全な調和というものが完成されたパズルのように静止した状態にすぎず、どれほど呆気ない一瞬で崩れるものであるか……それらを自分の本能は勘づいていた。そしてこうも動けずにいるのは、垂直に立てた棒が倒れないように息を詰めているようなものであることも。それでも今の満ち足りた生活と彼を失いたくない、ひたすらにそれだけを願っているのだ。
格子窓から青白い月光が暗闇の部屋に射し込んで、痛々しいほどくっきりした十字の影を倒れた身体に刻み付ける。窓の桟には柘榴の置物が歪な月のように輝いた。半分に割られた果実の模造は、敷き詰められた小さなガーネットの赤い粒を金の皮が包んでいる。
──またか。
真っ先に壁際のベッドへ首を向ける。そこには同居人の膨らみがある。耳を澄ませて彼の寝息を確かめ、……ほっと息を吐いた。
全身にかかる気怠い重力に逆らい、起き上がって服を見る。シャツの腹に掌ほどの濃い染みがあり、同系色の小さな斑が左袖にも付着していた。暗がりではシャツに付いた色彩は判別できなかったが、深緋に近い色であることは見当がついた。何故なら、最近ずっとこういったことが続いていたからだ。気がつくと深夜の床に突っ伏していて、服が真新しい血で汚れている。その痕は人間と思わしき馴染みある色の時もあれば、透明感のある鮮やかなワイン色の時もあった。この現象が起き始めた当初は少なからず動揺したが、全くの無意識下に繰り返されると実感を伴わずに麻痺してくる。思考の糸口がうまく掴めないせいもあるだろう。右手をきつく握ったり開いたりしながらも、誰かを傷つけたのか或いは──と考え始めると、触覚が記憶を探る前に回路が途絶えてしまう。その代わり、時によって赤の色合いが異なるのは人間以外の動物も混じっているからだろうと、妙に的外れで冷めた推測をした。
とりあえず、同居人を起こさないように汚れた服を洗わなければならない。身に覚えがない故に、痕跡を消し去ることで記憶と事実の辻褄を合わせてやり過ごすのが、ひとつの習慣になりつつあった。足音を忍ばせて寝室を抜け出し、洗面台に湯を張ってシャツを浸す。赤はオレンジがかった靄を燻らせながら透明な液体をうっすらと染めていく。今日は何の血だろうな、とぼんやり考えたが、専門知識のある医者でも血液嗜好者でもないのだから判るはずがない。
温められて立ち上った金属質な臭いに触発されたか、夕べに聴いたマイヤベーアのオペラが脳内に再生する。「Robert le Diable」主人公の男が、悪魔と契約を交わした父親によって魔の道に引きずり込まれる物語だ。幕開けから刺激的な享楽と血生臭い場面が展開する舞台だったが、何よりも、主人公へ押し寄せる魔性の父の凄まじい執愛の低音が耳の奥にこびりついた──Tu ne sauras jamais à quel excès je t’aime !(お前には決して解るまい、俺がいかにお前を愛しすぎているか!)以前ならば聴き流したであろう詞が、自身の奇異な行動に取り留めのない連想を喚び起こす。何か人知を超えたものが意識の綻びに忍び込んでいるのではないか……否、自らの行いを直視しないから、無形のものに形を与えて責任を転じようとするのか。C’est dans mes bras, C’est à moi que tu reviendras.(これは俺の腕、お前が戻ってくる俺の腕だ)気分が悪い。脳がランダムに汲み上げてくる音の断片に引っ掻かれて、意識の空白を振り回される……。
何処にも着地できない空想の悪酔いを押し退けながら血の痕を隠滅し、浄化された服を迷妄と共にゴミ箱へ切り捨てる。シャワーを浴びて清潔な長袖のTシャツに着替え、部屋に戻ると真っ直ぐに同居人のもとに向かった。眠りを妨げた気配はなく、胸を撫で下ろす。
ベッドの縁に腰を卸して寄り添うと、闇夜にくるまる姿に視線が縋った。
枕元から垂れ下がる長い黒髪は、月かげを浴びた澱みない清流だ。光はその寝顔にまで及ばなかったが、心の内には彼の面差しが浮かび上がる。ペルシアの青年のような、濃厚な甘美の憂いを帯びた造形の中に豊かな睫毛で縁取られた瞼。その瞼を開けば幅の広い二重が描かれ、灼熱の珈琲よりも更に黒い色の、神秘を底に沈めた瞳が現れる。
──暁。
声に出さず、半ば祈る感情でその名を呼んだ。
同居人と称しているが、実を言ってしまえば恋人である。同性の親密すぎる関わりは周囲の目に気を殺ぐものだったが、彼の性質には芯の強さに裏付けられた落着きがあり、二人の関係そのものは憂慮とか軋轢といった影から遥かに遠く離れた、平穏で充足したものだった。朝の目覚めには彼が淹れた挽きたてのモカを飲み、仕事に行く。帰宅した夜には四十二度の風呂に浸かって一日の疲れを解し、舌に合った食事とささやかな会話を交わす。週末の憩いには共通の趣味であるクラシック音楽を聴き、互いの体温をゆっくりと分かち合う──お前は熟すのに時間のかかる果実だ、と執拗なまでに焦らされながら……。そうして肌の熱が溶け合った後、彼の腕の中で訪れる穏やかな眠りは、愛と呼ぶよりも安らいという名の深い快楽に近かった。この部屋にあるのは、小さな楽しみの層を重ねた、幾種類かの脳内麻薬を僅かずつに享受する何気ない幸福なのである。
自分の夢中遊行は常軌を逸したものであろうと思う。精神の検査を受けるべきなのだろうが、もしも、と想像すると踏み出せなかった。このままでは、目覚めれば監獄ということもあり得ると、頭では解っている。いつか服を染める血痕が暁のものになりはしないか、それを非常に恐れてもいた。けれども病院に通うとなると、最初は誤魔化せたとしてもいずれ暁に話さなくてはならない。それは避けたい。──手前勝手な言い分は見渡す限りの矛盾だらけだ。彼を信頼していないわけではない。ただ、いわゆる平凡の幸福というものが、いかに絶妙な均衡の上に成り立つものか……一種の完全な調和というものが完成されたパズルのように静止した状態にすぎず、どれほど呆気ない一瞬で崩れるものであるか……それらを自分の本能は勘づいていた。そしてこうも動けずにいるのは、垂直に立てた棒が倒れないように息を詰めているようなものであることも。それでも今の満ち足りた生活と彼を失いたくない、ひたすらにそれだけを願っているのだ。