薄紅のわけ
化粧直しではなく、し直しているといったほうがいいだろうか。
朝、仕事に向かう彼女は、いつもきちんと化粧をしている。
学生から社会人になるときに 化粧品店の催しで受講し教えてもらった手順で
本当の顔を隠すような化粧をしていた。
厚化粧ではないが、その本質を想像させるほどにいつも同じ顔をしている。
忙しい時も 上司に小言を言われ落ち込んでいる時も 楽しいイベントにはしゃいでいる時も彼女の顔からは、いつも同じ笑みが零れる。
仕事の仮面と呼んでも言い過ぎにはならないだろう。
今、その仮面を落とす。少し疲れた顔が、表れる。
鏡の前で溜め息をひとつ。
そしてもうひとつ…大きく深呼吸した彼女の顔は、少し高揚し頬骨が上がる。
素肌に戻った頬を両方の掌でゆっくりと包み撫でる。
目を軽く閉じ、瞼をマッサージをしながらその奥に思い浮かべる。
その映像が、鮮明になったとき、目を開ける。
彼女の目は輝いて見えた。
手馴れた手順で化粧を始める。下地を作る。疲れが見えないように気を配る。
ファンデーションは、朝と同じ。肌の色は変えてはいけない。
もちろん特別な場面では明るめや抑えめな気遣いをする。
シャドウも頬につけるチークも眉墨もつける。
朝とかわらないではないか。
彼女は、ティッシュペーパーで、肌を押さえる。朝はここまで。
だが、もう一度ティッシュペーパーで、肌を押さえ、化粧が付かないことを確認する。
口紅は、色を変える。仕事用の口の動きが分かるはっきりとした色は付けない。
唇の輪郭がほんのり分かる程度に色づかせる。
色落ちしにくいルージュもあるが、ティッシュペーパーで、押さえる。
そして、最後にした下唇の真ん中辺りにだけ口紅の艶をさす。
口角を上げ、鏡に微笑んでみせる。
踵を返し、足先は、彼の待つところへ。
彼が、化粧が嫌いなわけではない。
素顔を見られるのが嫌なわけではない。
彼女が化粧をすべて落とすのは、あの温もりを守る場所だけでいい。
これから入り込むのは、夢のひととき。泡沫夢幻の刹那。
だからよそいきでなければいけない。
見つめ合うその眼差しだけでいい。言葉は、時間を無駄に使うだけ。
彼に凭れるときにも気遣いを忘れてはいけない。
彼の大切なひとが用意したカッターシャツにシミをつけてはいけない。
彼の大切なひと以外の香りを残してはいけない。
だって、今 彼はその大切なひとから借りているのだから。
彼に体に爪を立ててはいけない。
彼の体に紅い斑点をつけてはいけない。
彼と交わすのは、熱い吐息と彼女に触れる肌の温もりだけでいい。
彼女の想いは、唇にしたためた一点の艶だけで伝わる。
少しだけ濡れた唇が彼の唇に違和感を与えるだけで彼女の気持ちが彼に溶け込む。
不味い化粧の味も崩れた化粧の跡も彼には要らないのだから、彼女は薄紅をひく。
「じゃあ」
彼女は、また紅い口紅をひいてあの場所に帰ってゆく。
― 了 ―