Caramel
いつものように衣里子はユキ緒の家になんとなく居てリビングのソファで抱えた膝に顔を埋めていて、ユキ緒はキッチンでなにやら作業していた。さきほどまで衣里子のとなりで本を読んでいたが、飽きたといってお茶の用意をし始めたのだった。
「どっちにする」
あったかいほう、つめたいほう、とユキ緒は訊いたが、衣里子は眠気ですこし唸っただけだ。てっきり起きていると思っていたが、どうやら半分寝ていたらしいその様子にユキ緒は衣里子、衣里子さん、と呼びかけた。仕事で疲れているのかもしれない。社会人二年目の衣里子にとって休日は娯楽のためというより休息のためなんだろう、とユキ緒は考える。ではさきにお茶うけの用意をと、ユキ緒は冷蔵庫から丸いままのガトーショコラをとり出した。昨夜ひまだったのでつくっておいたものだった。お湯であたためた布巾でナイフをぬぐい、黒いやわらかな表面にそれを入れると、チョコレートの甘い匂いがかすかに香った。
それにつられたかどうかわからないけれど、衣里子のまつげがゆっくりと上下して、同時に甘い匂いが彼女の嗅覚をくすぐったので、今度はぱちりぱちりと瞬きしたかと思うと「いいにおいがする」と膝のうえに頬をおいたままユキ緒に顔を向けた。
「ガトーショコラ。紅茶はどっちにする」
あったかいほう、つめたいほう、とユキ緒は訊いた。
たれ目の、その人あたりが良く邪気のない顔が肩越しに愛らしい表情をつくるのを眺めながらどちらにしようかと衣里子は迷った。迷いながら、面倒なほうにしてやろうかと意地のわるいことを考えた。
考えるふりをしながら、ワンルームの部屋のきれいに整頓されたさまを見て、あいも変わらずものが少ないなと改めて思う。ユキ緒はひとやものに頓着しないし執着しない。その、妙にあらゆるものとの関係が希薄ないわゆる冷たい男が、どういう訳か衣里子とつかずはなれずな関係を保っているのは、幼馴染という関係だからだろうか。衣里子はいつも不思議だった。ほんの昨日のことなので、それを衣里子ははっきりと思い出すことができる。また違う、と一瞬で認めた自分がなんだかおかしかった。
彼らを見たのはほんとうにたまたまだった。昨日はたまたま残業がなく早く帰れることになり、同僚と駅のほうに行って、どこかで夕食をとろうかというときに、途中交差点をはさんだ反対側の花屋のまえでユキ緒と女の子がふたりで歩いているのを見かけたのだった。手をつなぐことはしていなかったが、ユキ緒と彼女の親しそうに肌がふれているのをみたときに衣里子の胸のうちに去来したものはなんだったのだろう。冷たく、温かく、焦げつくようで、凍ってしまうような感覚だった。かといって動揺したわけではなかった。馴染みのある感覚だったのだ。ユキ緒の女関係は衣里子をなんとなく不愉快な感じにさせる。そうしてすぐうしろの小さなキッチンで作業をするユキ緒を思って、なんだかひどく腹が立つのだった。けれどそのような感情のそばにはつねに寂静があり、衣里子はそこに座り、感情を制御し、表情にはださない。
「衣里子さん、ねえ」
「なあに」
「ねえ」
「なあに」
なにをそんなに怒ってるのだろうとユキ緒は考えた。それは振り返ったところで受けた衣里子の冷めた視線や表情の乏しさからではなく、発話の乏しさから察したものである。振り向いて見た衣里子にユキ緒は少し困ったように笑った。彼女の黒髪はその表情の乏しい白い肌の顔を際立たせた。振り向くときに短い毛先が揺れながら頬にかかるのを幾度も見とめながら、ユキ緒はなんとなくざわざわして落ち着かない。その指とか、のぞくうなじとか、細い肩とか腰の肢体の線は、ほかの女の子と同じようでほんのすこしずつ違っている。いままでもこれからも、おそらくいろいろな女の子のそばを歩くだろうけれど、衣里子のとなりに居るときとはなぜだか違うような気がしてならない。幼馴染だからだろうか。この部屋にくるのが彼女ひとりだけだからだろうか。だがどちらにしろ、ユキ緒の感情はまだ未発達だった。ほかの女の子に向ける感情と衣里子に向ける情の区別がつきかねる。彼の精神はいまださめぬままだ。
お湯が沸いた。「風のいいにおいがする」と衣里子が言った。
暮れていく秋の陽光はあたたかかった。だが風があって涼しい。南西向きのバルコニーから衣里子の伸ばしたむきだしの脚を照らしあたためてくれる光が洩れている。その白いなかの桃色の小さな爪先に気がつきながら、ユキ緒は陶器の白いポットの取り出した。あらかじめお湯で温めておいたから淡い熱を持っている。用意していた茶葉をいれてお湯を注いだところ、「つめたいのがいいかも」と 衣里子があいまいな結論を出してそう言った。
「残念。衣里子さんがいつまでたっても決めないから、カラメルのあたたかいのにした。ガトーショコラはあまり甘めにしていないから。ミルクはどうする」
衣里子は咎めるようにユキ緒を見た。「自分が訊いたくせにひどいのね」
「返事が遅すぎたからね。でもまあ、つめたいのだと身体冷えるし、衣里子さん冷え性だし、ガトーショコラが冷たいしね」
冷たさは衣里子の感情を落ち着かせてくれる。衣里子は不本意ながら無言で肯いた。不服ながらも納得した様子にユキ緒は苦笑した。 そしてつめたいガトーショコラは衣里子の感情を抑え、あたたかいカラメルは衣里子の身体のなかを否応なしに温めた。なんとなくユキ緒自身にほだされた感じがして悔しい。目の前の彼のその冷めた感情がすこしでも人間らしくなればいいのにと衣里子はうらめしく思った。