唇と少女病
私はやっとの思いでそう言いました。声が震えているのは、隠すことができませんでした。唇はそっと、私の剥き出しの肩甲骨のあたりに触れました。
「杏」
突然部屋のドアが開いて、おとうさんが入ってきました。
「明日から早速入院だ。準備を整えておきなさい」
「わかったわ、おとうさん」
まるでどこか遠くから響いているかのように、私は自分の声をぼんやりと聞いていました。
次の朝、私は荷造りを終えました。入院に際して必要なものは、下着と洗面用具と暇つぶしのための本くらいで、中くらいの鞄に全て収まってしまいました。他に詰める物は、決まっています。私は鏡台の一番上の引き出しを勢い良く開けました。中身はリップクリームです。いったい何本あるのでしょう。無香料、メントール、ストロベリー、グレープフルーツ、オレンジ、ピーチ、グレープ、チェリー、カシス、マンゴー、ココナッツ、パッションフルーツ、バニラ、チョコレート、ザラメ、ラムネ……。それら全てを掴み出し、鞄に詰め込みました。上から二番目の引き出しを開けます。そこにはリップグロスや口紅が入っています。ミルキーピンク、アプリコットピンク、クリアレッド、フレッシュオレンジ、ゴールドベージュ、コーラルピンク、ローズピンク、ピンクゴールド、ショコラオレンジ、ピンクベージュ、シフォンローズ、キャンディピンク、ペールピンク、ピーチベージュ、ブラウンピンク、フューシャピンク、キャラメルアプリコット、ラズベリーレッド、ライトブラウン、コーラルレッド……。これらも全て掴み出し、鞄に詰め込みました。もう必要な物はないでしょう。私は唇と自分の身支度にかかることにしました。
唇にリップクリームを塗って、その上に、綺麗な朝焼けのようなオレンジ色の口紅を重ねました。
「今日のリップクリームは何の香り?」
これまでと全く同じ調子で、唇は訊きます。
「今日は、はちみつよ」
私も、いつもと同じように答えました。
「そうか」
その先を唇は言いませんでした。いつもの軽口が聞こえないことが、少しだけ私を不安にさせました。
私が袖を通したのは、胸元に大きな茶色いリボンをあしらった小花模様のワンピースです。ウエストがきゅっと締まっているところが気に入っています。この服を着られるのも今日で最後かもしれない、と思うと余計にいとおしく思えてくるのでした。
自分の唇に塗ったのは、バニラの香りのするリップクリームと、アプリコットピンクのリップグロスです。いつもより時間をかけて念入りに、リップメイクを完成させました。
「杏、明日も私にリップクリームを塗ってくれるかい?」
唇が沈黙を破りました。
「ええ、もちろん」
私は頷きました。
「約束だ。約束したからには絶対に守ってほしい。いいね?」
唇はしつこく、念を押すように言いました。私は曖昧にほほ笑むことでしか、それに応えられませんでした。
「杏、準備はできたかい?」
階下からおとうさんが呼ぶ声がします。
「今行くわ」
私はそう返事をして、鞄を持って階段を駆け下りました。
「今日は、向かいの翠さんが亡くなったそうだ」
「そう」
こんなことを知らされても、私はもう心を乱されないのでした。
「杏。僕はこれから君を辛い目に遭わせてしまうかもしれない。許してくれ」
おとうさんは私の肩を掴んで引き寄せ、抱きしめました。懐かしい、仄かな煙草の匂いが、私の鼻腔をくすぐりました。
「おとうさん」
おとうさん、大きくなったら私、おとうさんと結婚するの。
小さな頃、何度も言ったこの台詞がなぜか今、口をついて出てきそうになりました。代わりに私の唇から零れ出たのは、
「おとうさん、大好き」
こんな言葉でした。
病院で暮らし始めてから、一週間が経ちました。最初こそ馴れませんでしたが、個室をあてがわれて、生活は至極快適です。私は毎日、身長、体重、体脂肪、血圧、体温を測られ、血と尿を採られます。腕には注射針の痕が目立つようになりました。ここではおとうさんとおかあさんの姿を見ることはありません。二人は今、どうしているでしょうか。おかあさんは、未だに泣いているのでしょうか。
今日の投薬実験では、青い透き通ったシロップ薬を飲まされました。お祭りで食べたかき氷の、ブルーハワイのシロップのような味がしました。何のための薬なのかは、誰も教えてくれません。私も訊きません。今のところ、痛みを伴うような実験はされていませんが、そんな猶予期間ももう長いことではないでしょう。
「杏ちゃん、もうすぐ骨髄穿刺の時期ね」
「あれって痛いのよねえ。私もやったことあるけど」
昨日、廊下ですれ違った看護師さんたちのこんな会話を小耳に挟んでしまったのでした。
「大丈夫、私が一緒にいてあげる」
唇は思わず身体を固くした私の耳元で囁きました。
「出来ることなら、私が代わってあげたいよ」
病室に帰ってから唇が言いました。
「杏が辛い思いをしているのを見ているのが辛いんだ」
「どうしてそんなに優しいの?」
私が問うと、唇は少しの間黙っていましたが、話し始めました。
「私には杏しかいないからだよ。杏がいなければ、私は生きていることすらできない。とてもとても、弱い立場にいるんだ。だから私は、杏を守らなくてはいけない」
「随分と打算的なのね。もっと純粋に私を愛してくれているのかと思っていたのに」
「愛なんて所詮、打算的なものだよ」
ふふ、と唇は自嘲的な笑いを漏らしました。
「私は、自分がどこから来て、なぜ生まれて、なぜ杏の傍にいるのかわからない。自分が何者なのかわからないんだ。なぜ私は唇なんだろう。なぜ人間に生まれなかったんだろう。私には目がない、鼻がない。私は杏の顔を見たこともないし、杏が毎日塗ってくれるリップクリームの香りも嗅げない。ただ出来ることは、杏の傍にいて、杏の話を聞いて、杏を元気づけることだけだ。だから、杏、杏、私を見捨てないでくれ。お願いだから好きだと言ってくれ」
「好きよ。私はあなたがとても、好きよ」
そう言って、私は人差し指で唇に触れました。ほのかに温かく、そして乾いていました。なぜか熱に浮かされたようになって、私は唇に、そっと口づけをしました。今朝塗ったリップクリームの、チョコレートの香りがします。くらり、と一瞬、目眩がしました。大丈夫、と唇は尋ねます。
「大丈夫よ」
と、私は答えました。
実はここ数日、なんだか身体がだるいのです。一日中なぜか眠くて、ぼぉっとしています。問診にもうまく答えられません。お医者さんにも、看護師さんにも、そのことはまだ言っていません。唇は誰よりも、私の心配をしてくれます。結局のところ、私は唇さえ傍にいれば幸せなのかもしれないのでした。
明日は唇に、どのリップクリームを塗ろうかと、私はそればかりを考えているのでした。
END.