唇と少女病
どういうわけか、昔から唇が私の傍にいます。寝ている時も、起きている時も、歩いている時も、座っている時も、いつも私の周りを漂っています。他の人には見えないようなのですが、唇はしょっちゅう話かけてくるので、うっかり相槌でも打ってしまった時には、立派な不審者です。私が一人で居る時以外は話しかけないようにと、きつく言ってあるのですが、なかなか守ってくれません。つい先日も、電車の中で、うっかり頷いてしまいました。向かい側に座っていた女の人が、視線をすっと逸らしたのを見て、ああ、またやってしまったと思ったのでした。
いったいいつから唇と一緒にいるのか、それは憶えていません。物心ついたころにはもうすでに、傍を漂っていたような気がします。両親に、小さいころはよく一人で喋っていた、と言われましたから、きっとそうなのでしょう。
名前など聞いたこともありません。二人で喋っている時に、お互いを呼び合うことなど滅多にありませんから、聞く必要もなかったのです。ですからここでも、ただの唇とします。
唇は何をするわけでもありません。私の周りをぐるぐる回り、話しかけてくるだけです。癪に障ることもありますが、時には相談にも乗ってくれるので、そう邪険にもできないのです。唇との他愛のないお喋りが、数少ない私の楽しみであることも、また否定できない事実なのでした。
朝と夜に唇にリップクリームを塗ってやるのが私の日課です。そしてそれが、私が唇にしてやれる唯一のことなのです。
嗅覚のない唇は、いつも聞きます。
「今日のリップクリームは何の香り?」
私の今朝の答えは、こうでした。
「今日はメントールよ」
「ああ、爽やかだ。すーっとして気持ちがいいね。だけれど、そろそろ乾燥する季節だから、もっと濃厚なのも良いねえ」
唇はいつもこうやって、褒めた後に注文を付けるのです。そういうわけで、私はリップクリームをたくさん持っています。薬用のもの、色付きのもの、香り付きのもの……。付け心地も、さらっと伸びるものや、こっくりと濃厚なものなど様々です。その日その日の気分に合わせてリップクリームを選ぶのが、私のささやかな楽しみなのです。時にはリップクリームを塗った上に、口紅やリップグロスを重ねづけすることもあります。唇は嫌がりますが、綺麗に塗れた時の満足感はひとしおです。リップブラシに口紅を取って、上下の輪郭を描いてから、内側を塗ります。それからブラシを縦に使って、唇の縦皺の中に塗り込んだら完成です。自分のお化粧よりも丁寧にしているかもしれません。今日は、ピンクベージュで上品に仕上げました。
唇の支度を整えてしまったら、次は私の身支度です。紺地に白い水玉模様のワンピースを着て、細い革のベルトを締めて、白い靴下を履きました。自分の唇には、ローズの香りのするリップクリームを塗って、グロスの色もピンクローズにしました。キャメル色のハンドバッグを持って、黒いストラップシューズの留め金をパチンと留めれば、お出かけの準備は万端です。
行き先は、ここ最近はいつも決まっていて、家の近くの公園です。ただベンチに座って、しばらくぼぉっとしているのです。ここ数日降り続いていた雨が止み、今日はとてもいい天気です。地面には大きな水たまりがいくつか出来ていますが、泥水を撥ね散らかして遊ぶ子どもたちの姿はありません。いえ、今日に限った話ではないのです。公園から、子どもたちの遊ぶ姿が消えたのは、どれくらい前からでしょうか。親たちはもう、子どもを外では遊ばせません。あのブランコが、ジャングルジムが、滑り台が、子どもたちの小さな足でよじ登られることは、もうないのでしょう。
静かに息を吸って、吐きます。空は晴れ渡り、空気はこんなにも清々しいのに、街を覆っているのは、暗く重い静けさです。
「杏」
不意に唇が私の名前を呼びました。
「なあに?」
「学校はいいのかい。もう随分行ってないだろう」
学校、という言葉を聞いて、私は思わず、びくりとしました。
「行っても、友達がどんどんいなくなっているのがわかるだけだから」
声が固くなっているのが、自分でもわかります。
「そうか」
唇はそれだけ言うと、黙り込んでしまいました。
「……瑠璃ちゃんも、あやめちゃんも、桃ちゃんも、みんな死んじゃったのよ」
知ってるでしょ、と私が言うと、唇は、そうだったね、とだけ答えました。
この街から、女の子が居なくなるのはもう時間の問題なのです。二年ほど前からでしょうか。女の子だけが死んでしまう病気が流行し始めたのです。病気にかかるのはだいたい、十二歳から十八歳くらいの子たちです。
症状は決まっていて、最初はだるい、熱っぽいと訴えます。それが何か月も続き、周囲もおかしいな、と思い始めた頃に死んでしまうのです。特に苦しむ様子はなく、いつも通りにベッドに入ったら、翌朝亡くなっていた、という場合がほとんどだそうです。
私も友達のお葬式に出たことがあります。死に顔はやすらかで、薔薇色の頬をしていて、唇は紅く、まるで生きているようでした。生きているときよりも生き生きとしていたかもしれません。誰が名付けたのでしょうか、この病気はいつの間にか、少女病と呼ばれるようになりました。
少女病が流行り始めて、街は閑散とするようになりました。制服姿の女の子たちがはしゃぐ声はもう聞こえません。クラスメイトが一人減り、二人減り、教室に空席が目立つようになってきた頃から、私は学校に通うのをやめました。今、どれくらいのクラスメイトが学校に通っているのでしょう。それを知る術はありません。学校に行かないと決めたその日に、私は友達の連絡先を全て消してしまいました。みんながどうなったのか、知ってしまうのが怖かったのです。知らなければ、生きているという希望を持ち続けていられる。悲しい知らせを聞かずに済むと、そう思ったのでした。私は時々、四十人の女の子たちが詰め込まれていたあの教室で、私だけが一人授業を受けている光景を想像します。いつか本当にそんな日が来るのではないかと思うと、怖くて堪らないのです。
私が少女病にかからない保証などどこにもありません。いえむしろ、今までにかかっていないことが、奇跡だとも言えるのです。もちろん、それは幸運なことで、私は死にたくはありません。けれど、この先ずっと生きていたいとも思えないのです。それはきっと成長という名の老いを許せないからなのでしょう。この身体を蝕む変化を受け入れられないからなのでしょう。それに、将来何をしたいだとか、そんな希望があるわけでもないのです。
唇に訊いてみましょう。
「将来、何になりたいとかって考えたこと、ある?」
唇は下に向かって弧を描きました。人間の表情で言えば、にやりと笑ったというところでしょうか。もう長い付き合いなので、唇の形とそれに伴う感情は、だいたいわかるのです。
「ないね。私はいつだって唇だよ。それでもって、これまでも、そしてこれからもずっと、杏と一緒にいるよ」
「私が死んだら、あなたはどうなるの?」
唇は、全体をちょっと尖らせました。
「さあね、たぶん死ぬんじゃないのかな。そうであってほしいね。私を認識できる者がいない世界で生きていくのはあまりにも空しいというものだよ」
いったいいつから唇と一緒にいるのか、それは憶えていません。物心ついたころにはもうすでに、傍を漂っていたような気がします。両親に、小さいころはよく一人で喋っていた、と言われましたから、きっとそうなのでしょう。
名前など聞いたこともありません。二人で喋っている時に、お互いを呼び合うことなど滅多にありませんから、聞く必要もなかったのです。ですからここでも、ただの唇とします。
唇は何をするわけでもありません。私の周りをぐるぐる回り、話しかけてくるだけです。癪に障ることもありますが、時には相談にも乗ってくれるので、そう邪険にもできないのです。唇との他愛のないお喋りが、数少ない私の楽しみであることも、また否定できない事実なのでした。
朝と夜に唇にリップクリームを塗ってやるのが私の日課です。そしてそれが、私が唇にしてやれる唯一のことなのです。
嗅覚のない唇は、いつも聞きます。
「今日のリップクリームは何の香り?」
私の今朝の答えは、こうでした。
「今日はメントールよ」
「ああ、爽やかだ。すーっとして気持ちがいいね。だけれど、そろそろ乾燥する季節だから、もっと濃厚なのも良いねえ」
唇はいつもこうやって、褒めた後に注文を付けるのです。そういうわけで、私はリップクリームをたくさん持っています。薬用のもの、色付きのもの、香り付きのもの……。付け心地も、さらっと伸びるものや、こっくりと濃厚なものなど様々です。その日その日の気分に合わせてリップクリームを選ぶのが、私のささやかな楽しみなのです。時にはリップクリームを塗った上に、口紅やリップグロスを重ねづけすることもあります。唇は嫌がりますが、綺麗に塗れた時の満足感はひとしおです。リップブラシに口紅を取って、上下の輪郭を描いてから、内側を塗ります。それからブラシを縦に使って、唇の縦皺の中に塗り込んだら完成です。自分のお化粧よりも丁寧にしているかもしれません。今日は、ピンクベージュで上品に仕上げました。
唇の支度を整えてしまったら、次は私の身支度です。紺地に白い水玉模様のワンピースを着て、細い革のベルトを締めて、白い靴下を履きました。自分の唇には、ローズの香りのするリップクリームを塗って、グロスの色もピンクローズにしました。キャメル色のハンドバッグを持って、黒いストラップシューズの留め金をパチンと留めれば、お出かけの準備は万端です。
行き先は、ここ最近はいつも決まっていて、家の近くの公園です。ただベンチに座って、しばらくぼぉっとしているのです。ここ数日降り続いていた雨が止み、今日はとてもいい天気です。地面には大きな水たまりがいくつか出来ていますが、泥水を撥ね散らかして遊ぶ子どもたちの姿はありません。いえ、今日に限った話ではないのです。公園から、子どもたちの遊ぶ姿が消えたのは、どれくらい前からでしょうか。親たちはもう、子どもを外では遊ばせません。あのブランコが、ジャングルジムが、滑り台が、子どもたちの小さな足でよじ登られることは、もうないのでしょう。
静かに息を吸って、吐きます。空は晴れ渡り、空気はこんなにも清々しいのに、街を覆っているのは、暗く重い静けさです。
「杏」
不意に唇が私の名前を呼びました。
「なあに?」
「学校はいいのかい。もう随分行ってないだろう」
学校、という言葉を聞いて、私は思わず、びくりとしました。
「行っても、友達がどんどんいなくなっているのがわかるだけだから」
声が固くなっているのが、自分でもわかります。
「そうか」
唇はそれだけ言うと、黙り込んでしまいました。
「……瑠璃ちゃんも、あやめちゃんも、桃ちゃんも、みんな死んじゃったのよ」
知ってるでしょ、と私が言うと、唇は、そうだったね、とだけ答えました。
この街から、女の子が居なくなるのはもう時間の問題なのです。二年ほど前からでしょうか。女の子だけが死んでしまう病気が流行し始めたのです。病気にかかるのはだいたい、十二歳から十八歳くらいの子たちです。
症状は決まっていて、最初はだるい、熱っぽいと訴えます。それが何か月も続き、周囲もおかしいな、と思い始めた頃に死んでしまうのです。特に苦しむ様子はなく、いつも通りにベッドに入ったら、翌朝亡くなっていた、という場合がほとんどだそうです。
私も友達のお葬式に出たことがあります。死に顔はやすらかで、薔薇色の頬をしていて、唇は紅く、まるで生きているようでした。生きているときよりも生き生きとしていたかもしれません。誰が名付けたのでしょうか、この病気はいつの間にか、少女病と呼ばれるようになりました。
少女病が流行り始めて、街は閑散とするようになりました。制服姿の女の子たちがはしゃぐ声はもう聞こえません。クラスメイトが一人減り、二人減り、教室に空席が目立つようになってきた頃から、私は学校に通うのをやめました。今、どれくらいのクラスメイトが学校に通っているのでしょう。それを知る術はありません。学校に行かないと決めたその日に、私は友達の連絡先を全て消してしまいました。みんながどうなったのか、知ってしまうのが怖かったのです。知らなければ、生きているという希望を持ち続けていられる。悲しい知らせを聞かずに済むと、そう思ったのでした。私は時々、四十人の女の子たちが詰め込まれていたあの教室で、私だけが一人授業を受けている光景を想像します。いつか本当にそんな日が来るのではないかと思うと、怖くて堪らないのです。
私が少女病にかからない保証などどこにもありません。いえむしろ、今までにかかっていないことが、奇跡だとも言えるのです。もちろん、それは幸運なことで、私は死にたくはありません。けれど、この先ずっと生きていたいとも思えないのです。それはきっと成長という名の老いを許せないからなのでしょう。この身体を蝕む変化を受け入れられないからなのでしょう。それに、将来何をしたいだとか、そんな希望があるわけでもないのです。
唇に訊いてみましょう。
「将来、何になりたいとかって考えたこと、ある?」
唇は下に向かって弧を描きました。人間の表情で言えば、にやりと笑ったというところでしょうか。もう長い付き合いなので、唇の形とそれに伴う感情は、だいたいわかるのです。
「ないね。私はいつだって唇だよ。それでもって、これまでも、そしてこれからもずっと、杏と一緒にいるよ」
「私が死んだら、あなたはどうなるの?」
唇は、全体をちょっと尖らせました。
「さあね、たぶん死ぬんじゃないのかな。そうであってほしいね。私を認識できる者がいない世界で生きていくのはあまりにも空しいというものだよ」