水爬虫
興醒めです。ねぇ貴女、興醒めで御座います。
俺は貴女の下僕です。下郎です。犬です。畜生です。貴女に蔑まれ蹴飛ばされながらも、時折貴女が艶やかな微笑を投げかけて下されば、それだけでもう全ての苦痛が喜びに変わったのです。そうやってねぇ貴女、もう五年にもなるのですよ。五年の間、俺は貴女にずっと跪いて傅いて、貴女の望みを現実にしてきたのです。貴女が望むなら何だってしましたとも。ええ、これは貴女の方もよくご存じの事でしょう。それで上手くいっていたではありませんか。お互いに満たされていたのでは無かったのですか。
それが貴女、今朝の言葉は何ですか。「お前の根気には負けたよ。お前、私を妻とするが佳い」ですって? 耳を疑うとはこの事です。俺は冗談ではなく貴女が気が触れたものだと思い、すぐさま脳病院へ問い合わせたほどです。そしたら貴女「おやおや、狂言なんかじゃないよ。全く大袈裟だねぇ、私は本気で言っているんだよ。騙したりはしないから安心おし」ですって! 嗚呼、何という事だ! これが本気だと云うのなら、こんな絶望は他にない!
貴女、一体誰が対等な立場など望んだというのです? この俺がただの一度でも貴女の男になりたいと進言しましたか? ただの一度でも恋人のような振舞いをしたでしょうか? 貴女、ねぇ俺は貴女という女王に仕えたのです。美しく気高い貴女だからこそ魂を、心血の全てを捧げたのです。貴女は俺の太陽で、俺は水の中の醜い水爬虫なのです。ただ水の中でゆらゆらと、そして時に残虐に過ごしながら、貴女からの光が届くのを、その恩恵に与る事を至上の喜びとしてきたのです。それが何です貴女。俺の妻に? 興醒めです! 全くもって嗚呼! 興醒めだ!
貴女の誇りは何処へ行ったというのです。消えてなくなってしまったのですか? あんなにも高く聳え立っていた貴女の自尊心が、俺の目にはもう映らない。言うに事欠いて俺の妻とは、随分と笑わせてくれるではありませんか。自分を蔑んで何が楽しいというのです。ああ、分らない。今の貴女は太陽どころか水爬虫ですらない。腐ったバナナだ。どろどろとして粘着質で、それでいて臭いも酷い! 貴女からは女の臭いがする! 自分で物を考える事を放棄した、あのつまらない姉達と同じ臭いが! ああ厭だ。堪らない。俺はそんな貴女を見るために生きてきたのでは無い!
もうこれきりです。太陽を失ったとあれば水爬虫は生きてはいけません。深海魚ではないのですから。しかし甘んじて放棄します。平等だの対等だのは肥溜めごと糞を喰らうがいい。そんなものは何の美徳でもない。悪徳だ! 悪習だ!
貴女が理解されていなかった事が、ほとほと悲しくて。
未練断ち切り、さようなら。