水面ノ怪 ―dead person―
水面にふたつの目玉が映ってたの見た時は、流石に人よりとろい部類に入る菊(キク)でさえも悲鳴をもらしてしまった。
持っていた編み縄を手放してしまえば、釣瓶はすぐに井戸の中に消えて、ばしゃり。底の方で音を反響する。
(なん、だったの?)
菊はきょとんとしたまま立ち尽くした。
(いま、目玉が、水に、映って)
そして驚いて反射的に手放してしまったんだ。
先ほどの自分の行動を思い出して、菊はすぐに天井を見上げた。水面に目玉が映ったならば、釣瓶の水面に映る範囲にある天井に目玉があるはずだからだ。しかし、天井には目玉なぞ見当たらず、菊は首を傾げた。お下げが軽く揺れる。
(見間違い、だったのかしら?)
もう一度天井をよく見てから、また考え、そうかもしれない。ポジティブな方に思い直した菊は、水を得るべく釣瓶を引き上げる。
(いつでもどこでもお化けが出るって意識してるから、あるように見えたんだわ)
(きっとなんでもなかった、気のせいよ)
自分の恐れる気持ちが見せた幻覚に違いない。そう思いながら、菊はようやく引き上げた釣瓶の中を覗き込む。やはり目玉があった。
しかしそれだけでなかった。その周りには青黒くむくれた顔の輪郭のようなものまで映っていて、
「きゃあ」
菊はまたもや悲鳴をあげて釣瓶を手放していた。
ばしゃり。
また水がはねる音が響いてくる。
(ど、どういうこと!?)
今度の菊は驚愕の念に流されず、すぐに天井を見上げたのだが。そこにやはりというか、何もなかった。
(どうして、一体、あれはなんなの?)
困惑と驚愕、そして恐怖と好奇。
菊の中に、四つの念が浮かび、ぐるぐると脳内を縦横無尽に駆け巡る。意味や正体のわからないものやことに対して、人間はその大小に個人差はあれど、本能的に恐怖とその正体を突き止めて克服しようと考えるように興味を抱くように出来ているのだ。
正体のわからないものを見たり感じたりした時に受けた恐怖心が好奇心を押し潰すほどのものの場合、人は自己の存続の為にその場から逃げるなど、この状態を脱しようとする、のだが。
今回菊は水面に現れた目玉に対し、恐怖よりも驚愕の念を強く抱いたので、結果的に好奇心が恐怖を圏外へ押しやった。
(もう一度、見てみよう)
どうやら釣瓶が出ているときだけ、あれは映りこむようだ。次は釣瓶を手放してしまわないように注意しながら、菊は釣瓶を慎重に引き上げていく。そうして、ようやく釣瓶を引き上げたキクは恐る恐るその水面を覗き込む。
やはり、目玉と輪郭はあった。のみならず、その顔の中心には鼻のようなものまで浮かんでいる。
(顔の部分が、増えてる)
どうやら見るたびに浮いてくるみたいだとわかり、さて、肝心の天井を見てみようかとしたとき、キクはこの顔にふと、何かおかしなものを感じて上げかけた視線を水面に浮かぶ顔に落とした。
目玉と、輪郭と、鼻。今はうっすらと唇が浮かぼうとしているのだが、菊はそれを見て水面を凝視しているのではない。
(なんだろ……なんか……気になる)
くしゃくしゃになった毛玉のような頭髪。瞳孔の開いた虚ろな瞳。小さな鼻。
たくさんの水を吸ってぶくぶくに膨らんだ灰青色の顔。腫れぼったい半開きの唇からは長くて白い虫が出てきて顔面をはいずり回り、おまけに顔面の皮膚の破れたところに入っていく。
(これの、どこが気になったのかしら)
怖いとか気持ち悪いと思うのとは違う、ただ彼女が気になったのは……。
菊は最初の目的である天井を見上げるのも忘れて水面をしばらく凝視していたのだが、やがて菊は知らず知らずの内に声を零していた。
(あぁ)
(このひどく、朽ち果てた顔は)
「おらの、顔」
そこに映っていたのは、長い間発見されずに沈んでいたような水死体の顔。
見るも無残に朽ち果ててはいたものの、正真正銘、自分の顔だった。
それに気付いた瞬間、菊は恐怖のあまり釣瓶を水底に叩き落とすようにして手放し、逃げていた。
彼女と井戸とのさほど距離は離れていなかったのにもかかわらず、今度は背後で水のはねる音は聞こえてこなかったそうだ。
作品名:水面ノ怪 ―dead person― 作家名:狂言巡