漂礫 五、
母が暮らしていると聞いた町へ向かった。新しい嫁ぎ先で子供も生まれたと聞いていた。優しく微笑む母の顔を思い浮かべ、山の中を歩き続けた。
夜が過ぎ、朝になって、母親が嫁いだ家の門をたたいた。
何かを期待していたわけじゃない。母に会って何か話したいことがあったわけでもない。
ただ微笑んでくれるだけでよかった。
何も変わらない笑顔が見たいとだけ思った。
久しぶりに会った母親は、俺の手を取り、小走りに駆けた。
母の嫁いだ屋敷の裏にある小山を、手を取ったまま駆け上がり、誰もいない社で俺の手に銭を握らせて言った。
「これで饅頭でも買って、食べたらお帰り。もう二度とここへ来たらあかんで」
何かが壊れた。
よろよろと後ろへ下がり、なんとか踏ん張って止まった。
息を整えた。
走り出してしまいたくなる衝動を堪えた。逃げ出したい気持ちを懸命に抑え込んだ。
歯を食いしばり、息を吸い込む。
別れの挨拶を言わなければ、一生悔いるのではないかと恐怖した。
手にした銭を投げつけ、罵って走り出してしまうこともできた。そのほうが余程簡単なことだ。だから、しなかった。逃げ出すことになる。逃げ出してしまえば、一生後悔する。もう一度、母に会って、改めて別れを言う。そんなことはできない。これが最後だ。逃げ出してしまえば、やり直しはできない。
足が震えて涙がこぼれ落ちそうになるのを堪える。
体の芯にある壊れたものを必死に支えているのは、逃げれば負けだという気持ちだった。
吸い込んだ息を、一気に吐き出した。
さようなら
叫んだと同時に、涙が噴き出した。
小山を駆け下りる。途中、足がもつれて転んだ。転がった勢いで立ち上がり、また走り出す。振り返らなかった。振り返ってもしかたがない。どうせ涙で何も見えない。なぜ、ここへ来たのか。ここへ来ても仕方のないことばかりだというのに。
家に帰ったのは明け方近くだった。
また、激しく打ち据えられた。
もう泣くことはなかった。許しを請うことさえしなかった。死を覚悟することもなかった。
打たれ、打たれ続け、堪え続けた。痛みなど感じなかった。打たれるたびに怒りが込み上げてくる。弱い自分が悔しかったのだ。弱い自分に対する怒りが収まらず、叫んだ。父親は叫びを聞き、さらに強く打ち据えた。
打ち続け、父が疲れ果てて止んだ。
俺のそばで肩を上下にさせ、木刀で体を支えながら息を切らしている。
日が高くなっていた。遠巻きに、村の連中が俺と父のようすを見ていた。
俺は立ち上がった。全身から血が流れ、手も足も動かそうとすると痺れて感覚がなかった。ふらりとよろけて、一度尻餅をついたが、そこから体中に血の気が戻ってくるような感覚があった。
もう一度、ゆっくりと立ち上がる。
よろけたり、ふらついたり、もうしない。
強くなってやる。
遠巻きに見ている村の連中を睨んだ。全員が、怖気立ち一歩二歩下がった。
その日から、鬼と呼ばれだした。畜生と囁かれだした。
村に現れた賊を打ち殺した。
人の畑を荒らそうとした別の村の男も打ち殺した。
村の連中は感謝するどころか、俺を怖れ、道を開けた。鬼と呼び畜生と蔑み、誰も近づかなくなった。
毎日続いていた父との稽古では、打たれっぱなしで終わらないようになった。たとえ無茶でも打ち返した。無理があっても打ち返した。父は前にも増して激しく打ち込むようになっていた。
「俺が善人に見えるか」
女に聞いた。
「私から見れば、善人だよ」
「だが、父親は俺を殺してしまおうと必死になっていたのかもしれない。剣術の稽古の最中にやり過ぎて殺してしまった。そういうことにしたかったのだろうな」
女は笑った。「そのお父様は、いまでも元気かい」
「稽古が終わった後、倒れて死んだ。村の連中は、俺が殺したと噂していたよ」
「ほんとうは、誰にも分からないよ」
後ろから、小屋の扉が開く音がした。風が杯を持って出てきた。
「私も、酒を飲もうと思う」
刀を鞘にしまった俺の隣へ座った。「酒を飲むなんて、珍しいな」
俺が言うと、
「今夜は何も起こりそうにないからな」と答えた。
女が風の盃に酒を注ぎながら笑って言う。
「大丈夫さ。妬く必要はないよ。あんたの男は私みたいな汚れた後家に興味ないらしい」
風は盃に口を付け、「そういう意味じゃない」と淡々と答える。「それに、汚れていない」
「優しいね。何をして稼いできたのか、あんたたちが寝ている間に何をしようとしたのか、全部知っているくせに」
俺は女の盃に酒を注ぐ。「汚れた金で買った酒が、こんなに旨いわけがない」
風も続けて言った。「お鈴は、あんたのことが大好きだ。どんな関係か知らないが、汚れた女に懐くような子じゃない」
「娘だと言ったろ」
「うそ」
「いやな女だね。なんでも見えちまう」
女は酒を飲んだ。親子ではなかったのかと思い、俺も酒を飲む。
女が立ち上がった。「今日は飲み過ぎちゃったね」
ふらふらと小屋へ歩いていく。
「先に寝るよ。楽しかったよ」
その背中へ言った。「明日、朝から発つ」
女は手を挙げて背中越しに答えた。「鈴が寂しがるね」
扉が閉まった。
明るい月が低くなっていた。
「泣いていたね」
風が言った。
俺は、気付かなかった。