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水族館

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『水族館』

 水族館は不思議なところだ。本来なら見ることのない異形の生き物を間近で見ることができる。そういった意味で、水族館は現実でありながら、非現実の空間なのだ。
 巨大な鮫の前に立ってみたまえ。どんなに立派な肉体を持っている男でもちっぽけな存在にしか見えない。それゆえに肉体しか誇ることのない男は、間違ってもデートの場所に水族館を選んではいけない。貧弱に見えてしまうから。

 香澄(かすみ)はニューヨーク帰りの記者だ。英語が堪能で、小さい頃からピアノ、バイオリンと数多く習った多才な女性である。そのうえ、どこか冷たい感じがするが、とびっきりの美人だ。なかでも、水晶のような美しい大きな瞳が実に魅力的だ。
 香澄に言い寄ってくる男たちは実に多い。しかし、みな、判を押したような男たちだ。頭脳明晰、お金も少なからず持っている。だが、金太郎飴のように特徴のない男たちでもある。セックスだって……実にノーマルだ。香澄はそんな男たちに飽き飽きしていた。そんな彼女が最近見つけた恋人がサーファーだった。彼はこれといった定職を持たず、いつも海にいる。ただ金がなくなると、ファーストフードの店で働いたりして稼ぐ。最初に声をかけたの、香澄の方だった。たまたま海に行ったとき彼を見かけた。筋肉質の体に小麦色の肌。実にセクシーだった。それに彼は今まで会ったどの男より優しい眼差しをしていた。まるで南の島の少年の目を想像させた。一目ぼれをして彼に声をかけたのである。

 二日目の夜、二人は結ばれた。
 高層ホテルの二十階。東京の夜景を観て、二人は抱き合った。今まで経験ないほど、香澄は燃えた。
 一か月後、二人は同棲した。
 ベッドに入ると、男は初めの頃と同じように香澄をねちっこく執拗に愛した。だが、香澄を辟易させるようになった。というのも、仕事で疲れた香澄の体は男の執拗でワンパターンの愛撫に反応しなくなってしまったのである。
 肌と肌を重ねるうちに男の本性が見えてくる。彼は「金だけが全てではない」とよく口にした。初めは新鮮の驚きを感じさせたが、やがて、それはただ単に貧乏人のひがみにしかすぎないことに気づいた。それに、彼は怒りっぽく、教養もまるでないことも分かった。そういったことが重なっていって、愛する気持ちは少し薄れていった。

 ある日、二人は水族館のあるレストランに食事をした。
 店内は少し薄暗く、明かりは水槽に集中していた。
「いいだろ? 魚は?」
「そう」
「なんだい、気に入らないのかい?」
「そんなことはないわ」
「魚って存在感があるだろ?」
「ええ」
確かにそうだった。筋肉質の彼も貧弱に見えた。
香澄はずっとゆうゆうと泳ぐ巨大魚をずっと見ていた。まるで、恋したかのように。こんな大きな魚の前ではどんな男もみずぼらしいのだ。
突然、香澄の心に『どうして、こんな男を愛したのだろう?』という疑問が起こった。
「やっぱり気に入らなかったみたいだね」と彼は言った。彼は不思議と女心を見透かすのがうまい。
「帰ろうか」と耳元と甘く囁いた。
「そうね」と頷いた。
 その夜、彼は激しく香澄を愛した。けれど香澄は燃えなかった。彼は一人で燃え尽きた後、鼾を立てて寝た。香澄は水族館で観た魚たちが強く脳裡に残って寝つかれなかった。

 数日後、怪しげなパブで幼馴染みの恭子に会った。
「どうしたの?」
「どうって?」
「変よ。この頃、彼とうまくいっていないの?」
「嬉しそうにいうわね、恭子」
「そう、香澄の幸せな顔を見るより、不幸せの顔の方が好きなんだもの」
「嫌な人」
「だって、香澄は美人で頭もいいわ。言い寄る男たちは掃いて棄てるほどある。それに比べて私はブスで頭だって良くないし」
香澄はじっと恭子を見ていた。
「ごめん、今日、私、悪酔いしたみたい。ごめんね。悪く思わないでね」
 恭子は涙ぐんでいた。
「私、彼と別れようと思っているの」
「あの、いかすサーファーと?」
 香澄は「うん」と小声で呟いた。
 音楽が流れた。
「ショータイムの始まりよ。若いぴちぴちした男の子がセクシーなスタイルで踊るの」と香澄は嬉しそうに言った。
「香澄、別れた方がいいわ。だって香澄には合わないもの」
「うん」
 香澄はどんな場合でも、自分のことは自分で決めてきた。そのことは小学校以来の友達である恭子が一番良く知っていた。だから、素直に従うとは思っていなかったが……。

 安っぽいアパート、狭い部屋、……香澄はその一つ一つに嫌悪感を覚えようになった。そのうえ彼は怒るとすぐに暴力を振るうのだ。身体じゅうに痣ができてまった。彼は本質的サディストなのだ。彼が最初に見せたどこかはにかんだ少年のような笑みは偽りの姿なのだ。
 男が海に出かけた日、香澄はいつもより早く会社から戻り、自分の荷物をまとめていた。
 日が暮れた頃、誰かがノックをした。
『今時分、誰かしら? 彼は、今日は帰ってこないはずなのに』と思った。
 ドアの側に立った。一瞬、不安の影が心を過った。
「どなた?」
 返事がしない。
「どなた?」と再度尋ねた。ノックがした。
「俺だよ、早く開けろよ」
 香澄は自分の耳を疑った。ドアを恐る恐る開けた。やはり彼だった!
 部屋の中に見て彼は驚く。
「どうしたんだ? 答えろよ」
「見ればわかるでしょ」
「何が気に入らなんだ!」と彼は怒鳴った。
「殴るの! 殴りなさいよ! いつもあなた、そうね」と冷たい目で言い返した。
「勝手にしろ!」
「勝手にするわよ! あんたなんか、ろくでなしのプー太郎でしかないわ」
 すると、男の張り手が飛んだ。

その夜、カスミは恭子に電話した。
「ねえ、水族館のあるレストランに行かない?」
「いつ?」
「明日」
「明日! わたしだって、都合があるわよ」
 香澄は何もこたえない。
「香澄、香澄、どうしたのよ、真夜中、電話かけてきたと思ったら、急に黙って。ねえ、香澄、……泣いているの?」
「泣いてなんかいないわよ」
「また、強がって。いいわよ。分かった、行きましょう」

「また、来ましたね」と年老いたウェーターが微笑んで香澄を迎えた。
 香澄は軽く会釈した。
「ここがいいでしょう」とウェーターは椅子を引いた。
「ワインにします?」
 香澄はうなずいた。
 ウェーターはにこやかに「赤がいいでしょう」
「じゃ、そうして」
ウェーターは軽くお辞儀をして消えた。
「何回もここに来ているの?」
「二回目よ」
「妙に慣れ慣れしいわね」
 香澄は聞いていなかった。
「ねえ、この魚、間抜け顔していない?」
「分からない。でも、男より魅力的よ。水の中は、魚にかなわない。どんな男でも」と香澄がこたえると、
「そうかな?」と恭子はどうでもいいような返事。
 魚たちはそんな会話は知らない。いや、彼女たちの会話に限らず店内にいる人間の会話に分からない。それでいて、魚たちは人を小馬鹿にしたような顔で泳いでいる。今日も、ゆうゆうと泳いでいる。


作品名:水族館 作家名:楡井英夫