シルエット
少女はカンバスを指差した。そこにはゆったりとした牧場が描かれている。未完成のそれに、色がつけられているのは下の芝と生き物だけ。そしてその上部の雲に、一筋灰色の線を描き入れたところだった。
その描き手である青年は、少女の言葉に溜め息を吐く。手に持った絵筆をくるくると回しながら、少女の方を向いた。
「なんですか、貴女は。邪魔をしないでください」
「いやん、つれない」
「わっ、馬鹿、やめなさい」
冷たい言葉に頬を膨らませた少女は、青年のパレットを持った手に腕をからめた。そのまま体重をかければ、青年は諦めたように瞳を閉じた。
「…で、なんでしたか」
「うん、ここ。雲でしょ?」
「雲ですね」
「なら白じゃあないの?」
パレットにも灰色、これで塗ったら雲がグレーになっちゃうわよと少女が言う。青年は肩をすくめた。不満そうに絵を見つめる少女の腕を、ゆっくり自分の腕からほどく。そしてパレットと絵筆を机に置くと、少女を窓へ手招きした。
「なあに?」
「見てごらんなさい」
カーテンを開けた先には、今にも雨が降り出しそうな曇天。少女は顔をしかめた。小さな拳がぎゅっと握られる。
「雲は何色をしています?」
「……灰色?」
「そうですね。わかりましたか」
話は終わったと言わんばかりに元の場所に戻ろうとする青年を、少女が睨む。カーテンの裾をいじりながら、少女は口を尖らせた。
「…だけど、ハッピーじゃないわ」
「はい?」
「そうよ!せっかく絵を描くんなら、みんながハッピーになれる絵を描きなさいよ!どーせ灰色の雲なんて見飽きてるんだから、真っ白な雲を描いたっていいじゃない」
目を輝かせながら絵を見つめる少女に、青年は本日何度目かの溜め息を吐いた。鋭くそれに気付いて少女が青年を睨む。
「なによ、何か不満?」
「…まず、雨の日はアンハッピーなのですか」
「そりゃあそうよ!雨が降ったら濡れるし、べたべたするし、暑苦しいし、何より空気が暗いんだもの。あたしは雨の日、嫌いよ」
「そうでもないと思いますけどね、俺は」
「それこそなんでよ。…あッ、雨降ってきた」
分厚い雲からついに雨がポツポツと落ちてきて、見る間に土砂降りになった。目に見えて肩を落とす少女に、青年は苦笑する。そして絵筆を手に取ると、
「ほら、そこに座って本でも読んでおいてください。あと少しで終わりますから」
「…本はいやよ。絵がないんだもの」
「なら別の何かをしていてください。ただし邪魔だけは駄目ですよ」
「わかったわよ!」
少女はふくれっ面で、窓際に置かれた椅子に乱暴に腰掛けた。古い木が悲鳴をあげる。少女が顔を上げて窓の外を見ると、すでに窓は曇っていて外の世界はくすんでいた。
少女はちらりと青年を振り返る。真面目な顔つきでパレットに筆を走らせる青年をじっと見つめ、そして少女は大きく息を吐き出した。曇った窓に指を滑らせる。三角形とハートを書いて、真ん中に一本棒を引く。仕切られた片側には自分の名前を書いて、そこで指が止まった。窓に映った青年の顔と目があったのだ。
「…なに見てるのよ」
「いえ、貴女があまり見ない顔をしていたものですから」
え?と問うと、顔が窓に映ってますよ、と言われて焦ったのは、少女だけの秘密。
「ほら、終わりましたよ」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。最後に時計を見てから一時間くらい経っていた。小さい椅子に丸まって寝ていたせいで、体の節々が痛む。少女が思いきり伸びをすると、その手を掴まれた。
「外も晴れましたから、久々に一緒に買い物でも行きましょう」
寝惚けた頭のまま、青年に引っ張られて部屋を出る。直前、思わず振り返った先の落書きには、書けなかったもう片側が書いてあるような気がしたけれど、正確にはわからない。青年がにやりと笑った。
「やっぱり俺は雨も悪くないと思いますけどね」
「……ちょっとだけ、なら、ね!」
とりあえず、繋がれた手の温もりが優しかったから、少女はハッピーだった。