こんな時にも声をあげなきゃ
小学三年生の息子とともに、ある日帰り旅行に参加させてもらった。
ローカル紙が、小学校の中高学年を対象として企画したもので、行程表を見ると電力会社の施設をいくつか見て回るとある。
電力会社といえばどこも巨大ではあるものの、商圏の限定された、いわば地元企業でもある。私たちは、その消費者代表みたいな気持ちになってバスに乗り込んだわけだが、親の本音で言わせてもらえば、夏休み終盤の親子日帰り旅行を一回分おごってもらったという感覚を持っていた。
企画はよくできていた。電力関連の広報のためのアミューズメントは親子とも楽しめる内容だったし、ふだんは入れない火力発電所内の各設備も興味深いものだった。資源の少ないわが国では原子力の平和利用がいかに大切かが、そこここで静かに語られていた。
楽しい旅程もつつがなく終わり、一行を乗せたバスは九時間ぶりに朝の集合場所に向かっていた。車内では旅行をふり返るより、夕食の話題で親子の会話が弾んでいる。
そんな中、めいめいの子どもに、小さな用紙と使い捨ての鉛筆が配られたのだった。
「キッズ電気会員募集」というような触れこみで、会員となった小学生に定期的に電気にかんする情報誌を、電力会社が無料で届けるという内容だった。
もとより固辞する理由もなく、モノが鉛筆と再生紙ということもあって、私は気楽な気持ちで住所と氏名を記入した。これが子どもに科学への好奇心を植えつけたり、学力の向上にひと役買ったりするかもしれないという期待もあった。
「お疲れさまでした」「ありがとうございました」「お気をつけてお帰りください……」
何度も何度もそんな挨拶が交わされる中で、たくさんの親子が用紙を係の人に手渡し、そして集合したときと同じ場所で解散した。
よかったね楽しかったかい、とか何とか、息子の手を引いて歩きながらとりとめもない話をしたものだが、彼の関心はもっぱら、巨大な火力発電のタービンにでも、精緻な原子炉の模型にでも、ましてやキッズ電気会員の特典にでもなく、途中のサービスエリアで食べた生イチゴソフトの味に向けられていたようだった。
さて、この親子はすっかり忘れていたのだが、『キッズ……』の方では覚えてくれていて、それから二回ほど電気や科学を特集した薄い中綴じ本を送ってきた。
そしてことしの夏、くだんの電力会社からかさばった封筒が届いたのだ。あの三月の惨劇のあとで、電力会社というものは、いったい何を見せたいのだろうかと思った。
開けてみると、それは風の力で電気を起こすという趣旨の工作キットだった。プロペラとモーターに紙製の尾翼、それにアルミの軸と軸受けが付いている。それらを組み付けて、満水にした二リットルのペットボトルに取り付けると完成だ。風を受けて尾翼が揺れプロペラが回ると、ストロンチウムの炎色反応のようにLEDが赤く発光する。風見鶏を兼ねた小さな発電機なのだ。
電力会社もこのご時勢、風力発電に対する従前の姿勢のままではまずいと思ったのか、それともただのポーズにすぎないのか。
そんなことを考える親をよそに、ともかく息子はムニャムニャ言いながら十分ほどで組み立て、軸を右手につまんで頭上に差し上げると、その場でいくらか回ってみせた。確かにコバルトブルーのプロペラは気丈に回転している。
ところがこのキットには、小さな、しかし重大な欠点があることがわかった。軸を軸受けに差し込み、大型のペットボトルのキャップとして取り付けてみると、じつに微妙なのだが、回転するプロペラの先端と軸受けが触れてしまうのだ。
プロペラを風に向ければ回ることは回る。でもときどき止まる。手を添えてやると動き出すが、すぐにまた止まる。原因は一目瞭然である。軸が短すぎるのだ。アルミ製の軸があと五ミリ長ければいい。それだけだった。九仞の功を一簣に虧く、でもないが、まことに惜しい。
設計段階でも試作のときでも納品の前でも、なんどもチェックする機会はあったはずなのに、小さな欠陥はそれらをすり抜けて、製品にくっついて私たちの手もとに届けられたのだ。大勢のおとなが揃いながら、だれもムニャムニャと十分間かけて組み立ててはみなかったのだろうか。慣れや怠慢や思い込みがいかに深刻な結末を呼び起こすのかを、同じ封筒を受け取った何千何万もの人に暗示させる結果になったのである。
──でもまあいいか。
それがそのときの私の感想だった。どうせ忘れていたことだし。どうせタダだし。あきらめ。プロペラはちゃんとは回らなかったが、息子は発電の仕組みはわかったみたいだし。なにより、風力発電をとりあげた電力会社の姿勢は悪くない。
手乗り発電機はペットボトルから外され、居間の水屋の上にしばらく放置されることになった。
それからひと月ほどたっただろうか。
この秋、また電力会社から何か送られてきた。こんどは小封筒である。個人名の入っていないお詫び文に、ビニール包装されたアルミ製の軸が添えられていた。文章など読まずとも状況はすぐに飲み込めた。
だれかが言ったのだ。
プロペラ、回らないじゃん。こんなのだめだよ。よし待ってな、かあちゃんが電話してやる。
それで電力会社に連絡したのだろう。ただそれだけのこと。しかし──。
多くの人が私と同じことを思ったに違いない。思うことはみんな似たようなものだ。
──なんどもチェックする機会はあったはずなのに、いったいどうなってるの。一事が万事。子どもの工作キットも満足に作れない会社が、どうやって原子炉なんか制御できるというの。
そういった彼女(あるいは彼かも知れないが)の、「これ、おかしいんじゃないの」という気持ちが『キッズ……』への連絡という行動を起こさせ、電力会社を動かしたのだ。
届いたのは長さ十センチほどのアルミ棒の一本だけ。前のものとは一センチと違わない。でもこの差が重要だったということはみんなわかっていた。
彼女の行動がもたらした成果は、何人かの担当者を赤面させただけではもちろんなく、「自分もその行動を起こしていたら、電力会社からこういう対応を得られたはずだ」と大勢の人に疑似体験させたことにあるのでないか。小封筒に入っていたのは、紙とアルミ棒だけではなかったのだ。
多くの人がじつに多くの似たような行動をとる。同じように不安に思い、同じようにあきらめる。民主主義の原理に従い、ものごとを決するのはその多数派だ。
旅行に連れてってやるといえばついてゆく。節電だとタクトを振られればそれも甘んじて受ける。電力を浪費する生活を決してよしとはしない。よき市民でいたい。
でも私には決定的に欠けているものがあった。おかしいと思ったら、声をあげる、行動するという、ちいさなちいさな決心である。
西風を受けて勢いよく回るコバルトブルーのプロペラと、赤く光るLEDを見ながら私は考えていた。
同じ行動をとるもよし。不安を共有するもよし。ときにはあきらめも必要だ。ただ、おかしいと思ったら行動を起こす。外形で示す。
なによりも、あとから聞こえるもうひとりの自分の声で後悔しないために。
作品名:こんな時にも声をあげなきゃ 作家名:中川 京人