漂礫 一、
漂礫 (ひょうれき) - 氷河によって運ばれた礫をさす。漂石ともいう。とくに大きなものは迷子石(まいごいし)とよばれる。氷河によっては遠方から運ばれてきたため、その土地にはない岩石からできていることがあり、よそから迷い込んできた石という意味でこの名がつけられた。 (Yahoo!百科事典) -
一、
猪を捕まえた。
弓で射ると、飛び上がり駆け出し、大木に頭を打ちつけて絶命した。
二日ほど前に町へおりて道場へ行ったとき酒を手に入れた。最近では手を合わせなくとも、俺の顔を見ただけで酒や土産を出してくれる。名が売れるというものは便利なものだ。土産で酒をもらった。猪を肴にその酒を飲める。
寝床にしている社(やしろ)へ戻ると女が座っていた。
山の中にある社で、もはや誰も近づかない廃れた社である。しかも女が一人でいるには物騒すぎる。あるいはもののけか。
手にしている猪を見せた。
「食べるか」
女は頷いた。
困ったものだ。俺の姿を見ても物怖じするようすもなく、あげく驚かすつもりが一緒に猪を食べると言い出す始末なのだ。
脇差を抜き、猪に突き立てようとすると女がそばに来た。手に小刀を持っている。その小刀に反応した俺の気を感じたのか女は少し下がって言った。
「火を用意してくれ」
猪を女に預け、薪を集めながら女に聞いた。
「名はなんと言う」
女は少し考えたようすで猪をさばきながら言った。
風
「かぜ?変わった名だ。どこから来た」
何も答えなかった。「俺の名前は聞かないのか」
「何という?」「武蔵だ」「変わった名だ」
俺は笑った。
猪の肉が焼きあがると日は暮れていた。
「四つ足は食べたことがあるのか」
町の連中は鳥や魚は食べても肉は食べない。女は頷く。
「酒は飲むか」それに対しては首を振った。「このあと、どうする。帰るところがあるのか、なければ今日はこの社で寝ていろ。俺は少し町へおりる」
「夜分に、町へか」
女の言葉に感情はない。不思議な感じがした。
「仕事だ」
「最近、町に盗賊が現れる」
女の顔を覗き込んだ。女も俺を見た。その目に、やはり感情はなかった。
「ついてくるか」聞いた。女は何も答えず、猪を口にした。
子(ね)の刻を過ぎた。
月は薄く、黒い空気が町を覆っている。俺の後ろを風が歩いている…はずだった。
気配を感じない。やはりもののけの類かと思い何度か振り返ったがまったく同じ間合いで俺の後ろを歩いていた。
闇が動いた。
大人数で動いている気配がある。
俺は足を速め、動いた闇のほうへ向かった。風を振り返りはしなかった。相変わらずついてきている気配はないが、間違いなく同じ間合いで俺の後ろにいる確信があった。
大きな屋敷の裏木戸が開いている。確か庄屋の屋敷だ。ここ最近、用水路の整備で賑わっている。裏木戸から入るといきなり男が一人立っていた。驚いたように俺を見た賊は声を上げる前に血飛沫をあげ後ろへ倒れた。
走った。
屋敷の中へ。
斬られている使用人を飛び越え、障子を開けた。賊に囲まれた夫婦と娘がいた。
「何者だ」
賊の一人が言った。答える代わりに手前にいた賊を上段から真っ二つに斬り下ろした。血を吹き出しながら倒れこんでくる体躯を蹴り飛ばし、左手にいた賊のみぞおちへ刀を突き刺しすぐに引き抜く。前に出てくる賊がいる。突然の騒動に対応できず後ろへ下がる賊もいる。目の前に出てきて上段に構えた賊が振り下ろす刀を持った両手を下から斬りあげると、俺の後ろから先ほど腹を突き刺した賊に向かって風が動いた。目の前の賊は肘から先を失ったにも関わらず上段から刀を振り下ろした動きのままに勢い余って前のめりになり倒れこんでくる。俺は右に動いて腕を失った賊をよけた。風が腹を刺された賊を後ろに倒し、夫婦に刀を向けていた賊の腕をからめるようにして倒しているのが見えた。俺は脇差を抜き、右手にいた賊の首を貫いた。
二刀流。
右手の大刀が別の賊を斬り下げ、左手の小刀がまた別の賊を突く。
腕を斬り落とされた賊の叫び声が聞こえた。足元が血で滑り出した。風は夫婦と娘を守るようにして賊を斬った。
何人かは逃がしたのかもしれない。
風が最後の一人の腕を後ろ手に極めたまま血糊があふれる畳の上に押し付けていた。
俺は風が押さえつけている賊に言った。「お前と、腕を失った男は逃がしてやる。斬られた腕をすぐに火で焼くことだ。血を止めなければ死ぬぞ。急げ。ああ、それと、二度とこの町で賊は働かないことだ。俺がいる。忘れるな」
風が放すと、腕を失った仲間を抱えて出て行った。
断末魔の喘ぎで残された賊が這いずり回っている。
風は娘を抱きかかえ、何か耳元でささやいた。
娘は小刻みに頷いていた。
命を奪われなかった使用人たちが遠巻きに見ていた。屋敷の外には騒ぎで目を覚ました連中が集まり始めているようだ。
部屋を見渡し、刀台に飾ってある刀をとり上げ、鞘から抜いた。
いい刀だった。飾っておくにはもったいない。
賊を斬ったため血と脂がべっとりとついた大刀を、震えたまま妻を抱きしめている庄屋の主人の前に突き立てた。
「俺はお前たち三人の命を助けた。おかげで俺の刀はこんなざまだ」
先ほどまで刀台の上できれいに飾られていただけの刀を見せ、「これをいただいていく。文句はないな」
返事を聞く気はなかった。
庭に飛び出し、開けっ放しの裏木戸へ向かった。風は抱いていた娘を使用人の一人に預け無言でついてくる。
駆けるように歩いた。騒ぎに目を覚まして家から出てきた連中の中には、俺の顔を見て近頃道場破りを繰り返していた男だと気付く者もいるだろう。面倒になることが嫌だった。もうこの町にいることはできない。
風の足音は聞こえてこない。相変わらず気配はないが、町を抜けたあたりで後ろではなく、すぐ横を歩いていた。
「不思議な体術を使う」
俺はかなり速く歩いている。それでも息を切らさず風はついてくる。賊を抑え込んだ風の動きを思い出していた。腕を取り、踊るように賊を組み倒していた。
「盗賊でもするのかと、思っていた」
俺の質問には答えず、風はそう言った。
「仕事、だと言った」
「人助けが仕事か。あれだけ暴れては儲からぬ。逃げてばかりになる」
「よい刀が欲しかった。手に入ったぞ。見るか」
「なるほど、賊と変わらぬ」
風が笑った。