絲上の会話
「毒がない蜘蛛に存在意義なんてあるのかい」
「毒がない蜘蛛に存在意義なんてあるのかい」
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蝶々が飛んでいた。ひっかかった。食べようとした。殺そうとした。でも殺せなかった。人思いに殺すことも出来なければ、生きたまま一思いに食うことも出来なくなっていた。体外消化の蜘蛛なのに、消化液を分泌できない。食われるでもなくただ引っかかって蝶々がただ晒されているだけだった。せめて殺してやれたならば、蝶々も楽なのに、蜘蛛は殺せなくなっていた。
哀れ蝶々は食われないまま他の生き物から冷徹な視線を送りつけられ、そして蟷螂が「蜘蛛が食わないなら俺が食う」とばかりにやってくるのだった。蜘蛛の糸に引っかかった蟷螂。そして蜘蛛自身、自分が横糸に引っかかった。蜘蛛失格。縦糸に粘り気がないのは自分が歩けるようにしているのだというのに、もはや弱った蜘蛛は何も出来なくなっていた。
「蜘蛛さん蜘蛛さん、私をどうして殺してくれないの」
「蟷螂さんに頼んでおくれ。僕はもう動けないし、動けても君を殺せないんだ。口がいかれちまった。僕はもう死ぬだけだ」
「俺に転嫁するな。お前の巣の糸のせいで、俺も身動きひとつ取れないんだ。鎌があっても動かせねえ。動かせたらそこの嬢ちゃんより先に爺を食ってやりたいくらいだ」
「君こそ僕を責めないでくれ。そもそも自分の弱りを認められるのか」
「くそ、爺はこれだからむかつくんだ。ああ、雌と交尾したかった」
「交尾したらその雌に食われるんだろう」
「本望だ!その雌のために俺は死ねるんだ。なんでこんな爺の蜘蛛ごときのために死ななきゃいけないんだ」
「やめてよ喧嘩なんて」
「黙っていろ弱い嬢ちゃんが。生憎俺は優しさとかはないんだ。性分でね」
「蝶々ちゃんは関係無いだろうに八つ当たりするなよ」
「うるせえんだ。だいたい爺のせいでこうなっているんだ。俺は悪くない。だから俺は八つ当たりしてもしょうがねえってこった」
「やめてってば」
「うるせえうるせえ」
「蟷螂さん」
「爺…毒がない蜘蛛に存在意義なんてあるのかい」
「やめてくれ!僕はただ習性で」
「ほら見ろ俺とおんなじだ。何か他のことに転嫁するなんてお前が嫌う俺と同類だ」
その時、巣に振動が走る。
「な、何なんだ、このネバネバが」
「おい、爺のせいで被害者また一人だぞ」
「雀蜂さん」
「なんだこれは…あんたがこの巣の主人かい」
「ああ。もっとも老いて自分すら引っかかったけどね」
「怏々虚しいねえ。そんな蜘蛛の巣に引っかかった俺もまあそういう運命なのかね」
「なんでこっちに来たんだ蜂野郎」
「行儀の悪い蟷螂君がいるな。まあいい、答えてやる。蜜蜂を追っていた」
「蜜蜂…蜜が目的か」
「連中の蜜は栄養満点だからな」
「そうかいそうかい…なんだこの連中。皆餌目的で引っかかってんのか」
「蝶々ちゃんに聞いてからにしな。彼女は違うかもしれないぞ」
「いえ、…恥ずかしいことですが」
「なんだ、お前もか」
「おいおい、あんたは蜜を吸う蝶々さんじゃないか」
「花を見つけて吸おうとしたんです。その時風に煽られ、蜘蛛さんの巣に引っかかってしまったんです」
「いいよ僕にさん付けしなくても。恨みの対象だろう」
「いえ、…蜘蛛さんはそうしなければ生きて行けないんでしょう」
「…なんだ、優しすぎないか嬢ちゃん」
「そうだぜあんた。食われて死ぬなんて悲しいじゃないか?悲しいじゃないか?」
「…私は…」
「あんたな、…」
「おい」
「…また僕のせいで」
「蜘蛛さんは責任を取るべきじゃないんです」
「いいや僕のせいだ」
「今度の友人は誰かな」
「あんたは…花虻かい」
「おいちょっ待てよこれマジありえねーよ」
「ありえてんだから仕方ねえだろあんた」
「なんでだよなんでこんな目にあってんだよ俺俺はまずいぞうまくないぞ足の裏菌だらけだぞ」
「大丈夫だ餓鬼、ここの爺虫が食えない」
「それはそれで問題じゃねーかおい」
「気づいたか」
「あんまり騒がないでいただけませんかっ…くすぐったいですっ」
「エッチな声出るなぁ」
「からかわないでくださいっ」
「すべて僕のせいなんだ僕の」
「もういいってんだよ!雀蜂も花虻も来てどうでも良くなったての!黙れ!…最期なんだろ?」
「ああ、そうだぜ主人、もう仕方ない。死の際くらい仲良くしようぜ」
「なんだよもう…俺の話完全無視かよおい」
「花虻くん、あんたも覚悟しろや」
「そうですよ花虻さん。もう諦めましょうよ」
「…ちっくしょうが…わかったよ」
「本当に…ごめん」
「だからもういいっての」
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風に揺られ落ちた蜘蛛の巣。朽ちた5つの虫の死骸。やがて土に帰るのだろう。