悪魔
「ふん、怖がっているのか! 君がいつもベッドの中で思っていることを、この俺が知らないとでも思っているのか」
おぞましい考えだ。サトルはなぜそんな考えを言ったのか。きっとミナが人を殺すなど万が一にもありえないと高をくくっていたからだろう。
「ふん、怖がっているのか! 君がいつもベッドのなかで、死ね! 死ね! と心の中で呟いているだろう」
はっとしてサトルを見た。心の中を見透かれた気がして顔色を失った。
「さあ、こっちにこいよ。たっぷりと楽しませくれ」と呼んだ。操り人形だった。
サトルは悪魔だ。恐ろしいまでの悪魔だ。殺さなければ、さんざん食い物にされてうえに最後は殺される。ミナはそう確信した。身を守るためにやむを得ず殺す。それが答えだった。第一、悪魔を殺したところで、何が悪いのか。ある人は非難するかもしれない。たとえ悪魔のような奴にも人権があると。しかし、それは悪魔に苦しめられたことのない人間の戯言だ。そう結論に達したとき、もう考えるのをやめた。
サトルを殺す! そうだ、殺さなければ逆に殺されるのだ。どうやって殺すか。サトルは決して殺されるとは思っていない。ミナは完全に自分の手に平にいる奴隷と信じて疑っていない。寛いでいる隙に殺す。抱かれた後、彼が一服しているときに背後から刺し殺す。何度も殺す場面を反芻する。そして、自分の論理の正当性を何度も確認する。やがて、それは確固たるものになる。殺せ! 殺せ!
ミナは別荘に呼び出した。
「どういう風の吹きまわしだ。俺に抱いてほしいのか?」と哄笑した。
ミナは顔をそむけた。
「その見下すような目が堪らなく好きだ」とミナの顔を引き寄せた。
「あなたを愛そうと心を入れ替えたの」
「心にもないことを」とサトルはまんざらでもない顔をした。
「ところで、今日は一人で来たの?」
「俺はいつも独りさ、この顔のおかげで、友達はいないさ」
「良かったわ」とミナは呟いた。
そのときだ。サトルのわき腹にナイフが刺さった。
「どうして?」
「あなたから自由になりたい。自由に、ただそれだけ」
ミナは感極まって泣き出した。が、なおも力を緩めなかった。
「自由?」
「そうよ。あなたから自由になるためには、こうするしかないの」
びっくりして、サトルはミナを見た。ミナは顔をそらさなかった。さっきまで泣きだしそうな顔をしていたはずなのに、今は口許にほんのわずかに笑みを浮かべていた。
「どんな自由だ。人殺しの自由か?」
ミナは答えなかった。
「俺の悪魔がお前に乗り移ったか?」とサトルは微笑んだ。
「さあ、もっと刺せ、そうすれば、お前は自由を手にすることができる」と笑う前に、ミナはナイフをさらに奥に進めた。
サトルの死体を彼の車ごと海に沈めた。
二年後、ミナは銀行員と出会い結婚した。さらに一年後に栃木のごくありふれた静かな街に引っ越した。夏は暑く、冬は寒い。三年が過ぎようとしていた。海の見えない風景、始めは馴染めなかったものの、やがて見慣れた風景に変わっていた。
ミナは幸福だった。広い家もあり、ピアノもあった。何不自由のない生活だった。
だが、数か月後にサトルの惨殺死体が発見されたのである。
刑事がミナの前に訪れた。
刑事がおもむろに口を開いた。
「奥さん、何にしに来たか分かっていますよね」
その声は低く、その地を這うような声であった。ミナは思わずサトルの声を思い出さずにはいられなかった。絶叫し倒れた。