悶々夜話(改訂版)
その日、会社の先輩方に連れ立って行き着けの中華料理屋で紹興酒をしこたま飲んで、会計の時にいつも出てくる店の娘がまだ一九であることを知った。前々から若いだろうとは思っていたがそこまで若かったとは思っていなかった。じろべえは何故か無性に得をした気分になった。
「また来るよ」と言い残して店去り、ああだこうだと先輩方としゃべくりながら駅前で別れた。
独り電車通勤のじろべえはもやもやと燻ったスケベ心を頭の片隅に感じながら、改札とは逆方向の成人男性向けの専門書店へ向かった。そこは書店とはいいつつも、卑猥なものであれば動画であれ何であれ豊富に取り扱っているのであった。じろべえは、書店の中を一通りぶらついた後、悩んだ。何を買うべきか、どのくらいの出費で抑えるべきか。可愛いらしい女の子のおっぱいやおしりが所狭しと装丁されたDVDが無数に溢れる空間で、じろべえは深い悩みにとっぷりと沈んでいく。否、一つはもう心積もりを決めているのである。先般引退が決定した肉姫のオムニバス集は売り切れ寸前だったので、二千円という割安感にも多いに助けられて入店早々購入を決定した。問題は二つ目のDVDを買うかどうかである。
この店に、じろべえはある程度の覚悟を持って入店している。六千円、というのが一つのボーダーラインだった。公序良俗に著しく反する、所謂マニア向けのDVD作品の場合、内容の如何に関わらず、一枚だけで六千円ということはままある。妻子持ちで小遣いの少ないじろべえにとっては卑猥なDVD一枚のために六千円を払うなど、よほど好みの内容でもない限りは馬鹿馬鹿しい。しかも情報化時代の今日、広大なネット上には無料の過激画像が気が狂うのではないかと思えるほど溢れ返っている。そのことを考えるとDVDを買うこと自体が一つの愚行ではないかという考えも頭をよぎるが、じろべえにとってはギリギリの条件の中で最大の満足感が得られる最適解を求める葛藤が楽しいのであった。
ある一定金額の中で購入の枚数、内容、質について悩み抜き、決断するというプロセスは卑猥云々を抜きにして真剣な作業なのである。じろべえにとっては、卑猥なDVDの選定というのは純粋にショッピングを楽しむことと同じだった。そう、これはショッピングなのである。
結局、じろべえはもう一枚だけマニア向けの変態的なDVDを買い、二枚で合計五千円そこそことした。じろべえは自分の情欲をいくらか割安で折り合いをつけ、お得感を噛み締めながら店を出た。
なんなんだこの達成感は、とじろべえはいつも思う。それは不思議と悩み抜いた末、何も買わなかった時にも思うことなのだ。そういう時はおそらく自分の情欲を制しきったことと多大な節約が出来たことへの達成感なのだろうと、じろべえは自分なりに分析している。
ようやく帰路についたじろべえは電車に揺られながら、卑猥なDVDに出演している可愛らしい肉姫たちのことに思いを馳せていた。彼女達は一体どういう気持ちで、このような世界に身を置いているのだろう。DVDの中に展開されている世界の相は、大乗仏教で言うところの地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六道のうち畜生の世界に類していると考えてあまり間違いはない。
阿修羅以上の世界には誇りがある。阿修羅は怒りの世界なので卑猥なDVDの中ではほとんど展開されているようには思えない。そうすると地獄、餓鬼、畜生の世界であるが、飽食の時代と言われるように時代的状況から考えると飢餓の世界である餓鬼が展開されていることはまずない。たまに地獄の相が展開されているジャンルのDVDがあり、じろべえも数度そういうものを目の当たりにしたことがある。地獄と畜生の世界で肉姫達の身体が轢き潰され、商業と映像技術という人間の業によって妖しく結晶化された媒体。DVD一つ手にとっても恐ろしいものだとつくづく思う。
電車を降りて改札を抜けると、ふと妻と幼い子供の顔が頭に浮かぶ。自分は随分幸せな世界に生きている。「また、詰らないものを買ってしまったな」とじろべえはひとりごちた。
じろべえは彼女達が目の当たりにしている世界について、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の相が該当するとは考えなかった。
しかし、少し思い直した。
世界の相は変わる。彼女達が目の当たりにする世界もまた変わるのだ。地獄の世界の中にも仏の世界は残されている。わずかに射す光を辿って人はその生きた身体のまま違う世界を見る為に生まれ変われる。自己が変われば世界の相も変わる。彼女達もまた変わるだろう。
道すがら、じろべえは二枚のDVDをポイと草叢に捨ててしまった。