年上のオトコ
たったそれだけのことでも、千里には彼に逢えることが嬉しい。
うきうきと待ち合わせに急いだ千里だったが、既にそこにいた菊地は、どこか疲れた雰囲気を漂わせていた。
「大丈夫ですか? なんか、疲れてるような感じですけど」
自分と逢う時間を作るために、無理なスケジュールで仕事をこなしていたのだろうか。
「そう見える?」
軽く覗き込む千里に、否定しなければ肯定もしない菊地。
「もしかして、無理とかしてます?」
数瞬、呆けたように言葉をなくした菊地だったが、くしゃりと笑んで千里の頭を乱暴気味に撫ぜた。
「お前に気遣わせちまうなんてな」
「はぐらかさないでくださいッ! これでも一応『彼女』なんですよ!」
どこへ向かうでもない、とりあえず足の赴くままに町を歩きながら、菊地は小さく唸る。
「だよなぁ。彼女なんだよなぁ……」
「なんなんですか、急にそんなしみじみと」
「彼女なんだよなぁって、改めて思っただけ」
「やめてくださいよ、不安にさせないでくださいって」
ちょっとな、と、菊地は言いにくそうに口を開く。
「この前さ、お袋の七回忌だったろ?」
「……うん」
菊地は母親を6年前に病気で亡くしている。その七回忌が、実家で行われたらしい。
法事とはいっても、結局は親戚たちが集まって近況報告をする場のようなものである。
そこで聞いたらしい。
「姪っ子がさ、結婚するんだって」
「結婚、ですか。お幾つなんですか?」
「そうなんだよ。それが問題なんだよ」
「……。16歳とか」
首を振る菊地。
「26」
「にじゅうろく、さい、ですか」
結婚するにはとくに早すぎもないし、遅いわけでもないと思われるのだが。
「問題は姪っ子のじゃないんだ。相手なんだよ、相手の年」
「……幾つくらいなんですか?」
「53」
「……。えと、聞き間違い?」
「聞き間違いじゃない。ごじゅうさん歳の立派なおっさんだ」
菊地の姪っ子も千里と同じく、かなりの年齢差のひとと付き合っていたということか。
なんとなく親近感のわく千里。だが、菊地の表情は暗い。
「兄貴がそりゃもうすごい大反対で」
「53ですもんね」
菊地が53歳になるのは、あと9年も先の話だ。千里にとっては未来の話である。
「兄貴よりも年上なんだよな。だから余計に相手の悪口言い放題で、なにがなんでも阻止してやるって息まいててさ。おれにも協力しろって言ってくるし」
辟易したように菊地は続ける。
「あぁ、これが普通なんだよなって。おれもあんなふうに頭から反対されるんだなあって思ったら、ちょっと切なくなって」
「―――もしも。もしも菊地さんもあたしの親にそうやって反対されたら、どう……します?」
千里の不安を見透かすように、菊地はとろけるような笑みを漏らした。
「説得するだけだよ。どれだけかかっても、御両親を説得して、判ってもらう。それだけだ」
「―――」
すべての音が、消え去った。
ごく当たり前のような菊地の言葉。
それはまるでプロポーズで。
菊地が、そう想ってくれているとは信じきれてなかったから、余計に胸の底からこみ上げてくるものがある。
「どうした?」
「だって、嬉しくて」
「そうか」
感極まって涙すら浮かべる千里に、菊地も少し照れ臭そうだ。
本当は、ずっとずっと不安だった。
大学生の自分に、菊地は一歩引いて接している気がしていたから。
問い詰めたことがあった。どうして距離を作っているのかと。
返ってきた答えはこうだった。
千里はこれからいろいろな経験をし、辛いことや嬉しいことからたくさんのことを学んでいかなければならない。
もっと年の近い男性との出逢いもこれからあるだろう。出逢いと別れをくり返して、様々な感情や自分自身との折り合いをつけていくことも身につけていくだろう。
そういった楽しいだけではない経験は、必ず千里を豊かな人間にしてくれる。
『おれだけを世界のすべてにするな』
彼は、千里のこれからのことを想って敢えて距離を作っていたのだ。
彼氏彼女という関係でいてくれるけれど、将来を示唆する言葉は、一度もくれなかった。
だから、いまの言葉はすべてが煌めいて見えるほどに嬉しかった。
ひと波の中で立ち止まる千里を、菊地はそっと路地へと促す。
「いつか、おれのもとに戻ってきたら、ちゃんと挨拶をしに行く。どれだけ反対されても、必ずお前を嫁に貰うから」
耳元に、そっと囁き込まれる。
「たくさんの経験をしろ。そうして、おれのもとに戻ってこい」
「だからあたしは菊地さんからは離れないって。離れないんだから」
「そうだったな」
菊地の笑みは、どこか寂しそうだ。
たまらず、ぎゅっと彼の腕を掴み、その胸にこつんと頭を乗せる。
「いつか菊地さんのところに戻ってくるのだったら、どこに行ったって、あたしは最初から菊地さんのものなんだよ。菊地さんがいるから、飛び立てるんだよ。だから。だから、あたしは菊地さんから離れられないんだよ」
千里の背にふわりと手が添えられ、頭に重みを感じた。菊地が、顎を乗せるようにして抱き寄せてくれていた。
「だからお前を手放せないんだよな」
敗北宣言のように、菊地は言う。
「手放すことができれば、やきもきしないで済むのに」
「手放さないでください」
「いいや。お前にふさわしい出逢いがあったら、お前は遠慮なく飛び立つんだ」
「そんな」
だが、と、菊地は千里を覗き込む。
「それまでは、おれはお前を絶対に手放さないから」
力強い笑顔が、千里の目の前で輝いていた。