インドの天空の村
そこはインド。今も仏の教えが息づく天空の村がある。標高は三千メートル。極度に乾燥した土地である。
遠くには、青い空を背にした白く連なるヒマラヤ山脈がある。神々しいまでに美しい。神が住んでいると信じられているのも、うなずける。
ヒマラヤ山脈はあたかも白い帆をあげた帆船のようにも見える。そうだ、永遠という時間の海原を航海している巨大な帆船なのだ。
村には、人工的なものがほとんどない。村人は、僅かな土地に麦を蒔き、僅かばかり家畜を飼い、そしてバターを作る。チベットから移り住んだ時と変わらぬ生活だ。質素で、それでいて生き生きとしている。そこに先進国の人間たちが持つ不快な顔色はどこにもない。
どこの家でも一人は僧になる。僧侶は子供を作らない。そうすることによって彼らは人口を抑制してきた。僧は子を作らぬ代わりに尊敬を集める。タバコも酒も肉も口にしない。川に魚が溢れているが、魚も食べない。仏の教えに従っているのだ。命ある限り、全てを経を捧げる。“ラマ”と呼ばれる高僧になるためには、仏教の教典を気の遠くなるほど読まなければならない。やがて教典を諳んじるようになる。
村人もただ祈り、昔と変わらぬ日々の営みがある。時間はゆっくりと静かに流れる。
夏、祭りがある。女たちは沢山のトルコ石がつけてある帽子を被る。動物も集まる。生きとし生きるもの全てが集う。命の尊び、豊作を祈る。祭りは彼らの娯楽でもある。子供たちが踊り、村人たちが喚声をあげる。祭りの最後を締めるのは、高僧の踊りだ。村人は高僧の衣服に触る。彼らにとって至福の瞬間だ。
村の外れには、廃墟がある。その昔、寺であったものだ。崩れた仏塔。その中には仏像群。天井には、かつては極彩色であったはずの曼陀羅、それにマハカーラも描かれている。マハカーラはチベット仏教の大黒様である。恐ろしい顔している。悪に打ち勝つ力がそこに表れている。
チベッド仏教の特徴として、男女の結合した絵や像が多い。またチベット仏教を支える総本山の一つであるボタラ宮殿には、獣姦図もあるという。もともとチベット仏教は生の根元であるセックスに対する偏見はない。むしろ、それを積極的に宗教の一部に取り入れている。それはインドのヒンズー教の影響があるのだろう。ヒンズー教には、聖なるものはもっとも俗なるところから生まれるという考えである。美しい蓮の花も泥の中から生まれるのだ。 泥の中から美が生まれ、死は生の始まり。永遠に途切れることのない輪廻。そういった発想は西洋の思想にはない。
遠い昔から変わらぬ生活を営んでいるこの村に来ると、誰も悠久の時の流れを感じずにはいられない。