変身
『変身』
誰かが美沙子のことを桜の花のような女だといった。清楚で、それでいてどこか艶やかなところが、そう言わしめているのであろう。彼女は二十三のときに結婚したが、いつしか仮面夫婦になっていた。かなり前から二人は別々に夜を過ごしていたが、出世と体面を重んじる夫は離婚しようとはしなかった。
夫は愛人を囲っていたが、美沙子はずっと貞淑を守ってきた。夫はそんな美沙子の生真面目でどこか型にはまったようなところが嫌いだった。
美沙子は嫌われていると気づいていたが、ずっと変われずにいた。夫が酔ったとき、美沙子に「お前ももう少し男を知れば、少しは角がとれて、いい女になるかもしれない」と言ったことがある。その一言が心に刺さったまま、美佐子はずっと寂しい夜を過ごしてきる。
偶然、美沙子はタケルと知り合った。タケルは今風にいえば、肉食男子である。彼女の美しさに一目ぼれをしてアプローチした。はじめ、美沙子は十歳も年下のタケルを相手にしなかったが、猛烈にアタックした。その一途な思いにほだされたのか、美紗子の心が大きく揺らいだ。そのとき、偶然にも以前から心に刺さっていた「お前ももう少し男を知れば、少しは角がとれていい女になるかもしれない」という夫の一言を思い出し、一線を越えようと決意した。
恋に落ちた頃は罪意識に襲われ苦しんだが、夫と同じようなことをしているに過ぎないと自分に言い聞かせることによって、罪の意識から逃れることができた。けれども美沙子は二人の関係が長く続くとは思っていなかった。逆に早く終わらせなければいけないとも思った。なぜなら結婚しているのだから。しかし、二人の関係はずるずると一年続き、再び春が巡ってきた。
その日は春の嵐が街を襲い、いたる所で咲き始めた桜が風に舞っていた。タケルの部屋から二人で荒れ狂う外を眺めていた。どこからもなく桜のはなびらが部屋に迷い込んだ。
突然、タケルが「結婚しよう」と言った。
美沙子はそう言われて嬉しいと思うのと同時にうしろめたさも感じていた。結婚していることを言っていなかったからである。
「もう少し待って」
「嫌なのか？」
「そうじゃないけど、まだ心の準備ができていないの」とまるで十九歳の小娘のようにうつむいた。そんな美沙子を見て、タケルは一瞬驚いたものの、かえってかわいいと思った。
「どのくらい待てばいい？」
「あと一か月、いろんな人に相談したいから」と美沙子は適当に答えた。
タケルは美沙子を抱き寄せ、いつものように愛した。その後、美沙子がシャワーを浴びた。
暇を持て余していたタケルは、偶然、美沙子のハンドバックが半ば開いていることを気づいた。タケルは好奇心もあってハンドバックの中をのぞいてしまった。保険証が入っていた。それを見たとき驚いた。彼女が結婚していることが分かったからである。
シャワーを浴びて化粧を終えた美沙子に向かって保険証を投げつけ怒った。そのとき、彼女は凍りついた。
タケルは恐ろしい形相して｢どういうことだ！」と美沙子を叩いた。
美沙子はタケルを見た。鬼のような顔だと思った。その恐ろしい顔に後ずさりをしてしまった。
「嘘つき女！」と怒鳴り何度か叩いた。
美紗子は何も反論できないままタケルの部屋を出た。
美沙子は家に戻った。
夜になっても、夫は戻ってこなかった。おそらく愛人のところに泊まっているのであろう。珍しいことではなかった。
いつものように一人で寝た。恐ろしい夢を見た。地獄に落ちる夢である。地獄の魔王が美沙子の不貞を責める。その魔王の顔はタケルの顔にそっくりだと気づいたとき、目が醒めた。
起きて窓を開けた。
風はまだ収まっていなかった。庭の木立はまるで狂人のように揺れている。風が勢いよく雪崩こんできて、体を通りぬけた。気持ちよい。そのとき汗をびっしょりかいていることに気づき、シャワーを浴びることにした。
シャワーを浴び終えたとき、既に夜が明けていた。少し早かったが、起きることにした。
化粧をして外に出た。
風はいつしか収まり、穏やかな春の朝となっていた。
河辺に来た。橋のたもとで河をぼんやり眺めた。ところどころできらきらと光っている。川面に映る自分をじっと見ているうちに、夢のことが思い出され、ふと死んだならこんな嫌な夢を見ることもないのにと思ったりした。やがて、吸い込まれるような不思議な感覚になり気を失ってしまった。
気づいたとき、病院にいた。どうやら投身自殺を図ったことになっていることを知った。死を想像したのは事実であったが、睡眠不足によるめまいで川に落ちてしまっただけだと美沙子は思った。自殺など馬鹿馬鹿しいと思っていたものの、あえて否定するようなことはしなかった。
退院後、落ちた河に行ってあれこれ考えた。
『死ぬことなんか、思ったほど難しいことじゃないわ。そして、死ねば何にもなくなってしまう。どんなことも全て消えてしまう。あまり重大に考えるのは馬鹿げている、ましては恋の悩みなんか』という結論に達すると、急に目の前が晴れたような気がした。
夫が「俺との結婚生活が嫌なら、離婚していいぞ」と言った。
「お前が自殺を図ったことが社内で広まり、俺は出世街道を走れないと専務に言われたよ」と皮肉たっぷりに言った。
美沙子は「離婚しようと思ったことはない」と言おうと思ったが止めた。反対に「あなたがそうしたいなら、いいわよ」と答えてしまった。結論からいえば、どうでも良かったのである。
直ぐに離婚の話はとんとん拍子に進んだ。美沙子は多額の慰謝料をもらい、その金でマンションを買い独り暮らしを始めた。マンションに引っ越ししたとき、不思議と清々しい気持ちだった。
ひと月が過ぎた。
突然、タケルから美沙子に電話がかかってきた。
何を思ったが、神社にお参りに行こうと言い出した。美沙子は乗り気でなかったが、あまりに強引な誘いだったのでしぶしぶ承諾した。
お参りした後、いつしか神社の近くの河に来ていた。
｢何をお願いしたの？｣と美沙子は聞いた。
｢別に、美沙子は神仏を信じているのかい？ 僕は賽銭をあげてきただけだ。後は健康であればいい。自分の道は自分で切り開くよ、神仏に頼ろうと思わない｣
｢私もそんなこと考えたことがないけど…｣と微笑んだ。
明らかに美沙子は困惑していた。タケルは何事も理詰めで考える。美沙子は、その合理的なものの考え方に、何かしら疲れるものを感じずにはいられなかった。愛されているという思いより、過去を振り返ると、疲れる思いをした方が多かったことにも気づいた。
雨が降ってきた。
｢雨よ｣と少しうわずった声で美沙子は言った。
｢帰ろう｣とタケルは優しく言ったが、その裏に何かしら強制めいたものを感じずにはいられなかった。
｢もう少し、ここにいるわ｣
｢どうして？｣
｢もう少し、雨を見ていたいの。河に降る雨を見ていたいの｣
｢少し変わったな｣とタケルは言って美沙子に背を向け歩いた。
「いったい何があったんだ」と聞いた。
「知っている？ 私、この河に落ちたの」
誰かが美沙子のことを桜の花のような女だといった。清楚で、それでいてどこか艶やかなところが、そう言わしめているのであろう。彼女は二十三のときに結婚したが、いつしか仮面夫婦になっていた。かなり前から二人は別々に夜を過ごしていたが、出世と体面を重んじる夫は離婚しようとはしなかった。
夫は愛人を囲っていたが、美沙子はずっと貞淑を守ってきた。夫はそんな美沙子の生真面目でどこか型にはまったようなところが嫌いだった。
美沙子は嫌われていると気づいていたが、ずっと変われずにいた。夫が酔ったとき、美沙子に「お前ももう少し男を知れば、少しは角がとれて、いい女になるかもしれない」と言ったことがある。その一言が心に刺さったまま、美佐子はずっと寂しい夜を過ごしてきる。
偶然、美沙子はタケルと知り合った。タケルは今風にいえば、肉食男子である。彼女の美しさに一目ぼれをしてアプローチした。はじめ、美沙子は十歳も年下のタケルを相手にしなかったが、猛烈にアタックした。その一途な思いにほだされたのか、美紗子の心が大きく揺らいだ。そのとき、偶然にも以前から心に刺さっていた「お前ももう少し男を知れば、少しは角がとれていい女になるかもしれない」という夫の一言を思い出し、一線を越えようと決意した。
恋に落ちた頃は罪意識に襲われ苦しんだが、夫と同じようなことをしているに過ぎないと自分に言い聞かせることによって、罪の意識から逃れることができた。けれども美沙子は二人の関係が長く続くとは思っていなかった。逆に早く終わらせなければいけないとも思った。なぜなら結婚しているのだから。しかし、二人の関係はずるずると一年続き、再び春が巡ってきた。
その日は春の嵐が街を襲い、いたる所で咲き始めた桜が風に舞っていた。タケルの部屋から二人で荒れ狂う外を眺めていた。どこからもなく桜のはなびらが部屋に迷い込んだ。
突然、タケルが「結婚しよう」と言った。
美沙子はそう言われて嬉しいと思うのと同時にうしろめたさも感じていた。結婚していることを言っていなかったからである。
「もう少し待って」
「嫌なのか？」
「そうじゃないけど、まだ心の準備ができていないの」とまるで十九歳の小娘のようにうつむいた。そんな美沙子を見て、タケルは一瞬驚いたものの、かえってかわいいと思った。
「どのくらい待てばいい？」
「あと一か月、いろんな人に相談したいから」と美沙子は適当に答えた。
タケルは美沙子を抱き寄せ、いつものように愛した。その後、美沙子がシャワーを浴びた。
暇を持て余していたタケルは、偶然、美沙子のハンドバックが半ば開いていることを気づいた。タケルは好奇心もあってハンドバックの中をのぞいてしまった。保険証が入っていた。それを見たとき驚いた。彼女が結婚していることが分かったからである。
シャワーを浴びて化粧を終えた美沙子に向かって保険証を投げつけ怒った。そのとき、彼女は凍りついた。
タケルは恐ろしい形相して｢どういうことだ！」と美沙子を叩いた。
美沙子はタケルを見た。鬼のような顔だと思った。その恐ろしい顔に後ずさりをしてしまった。
「嘘つき女！」と怒鳴り何度か叩いた。
美紗子は何も反論できないままタケルの部屋を出た。
美沙子は家に戻った。
夜になっても、夫は戻ってこなかった。おそらく愛人のところに泊まっているのであろう。珍しいことではなかった。
いつものように一人で寝た。恐ろしい夢を見た。地獄に落ちる夢である。地獄の魔王が美沙子の不貞を責める。その魔王の顔はタケルの顔にそっくりだと気づいたとき、目が醒めた。
起きて窓を開けた。
風はまだ収まっていなかった。庭の木立はまるで狂人のように揺れている。風が勢いよく雪崩こんできて、体を通りぬけた。気持ちよい。そのとき汗をびっしょりかいていることに気づき、シャワーを浴びることにした。
シャワーを浴び終えたとき、既に夜が明けていた。少し早かったが、起きることにした。
化粧をして外に出た。
風はいつしか収まり、穏やかな春の朝となっていた。
河辺に来た。橋のたもとで河をぼんやり眺めた。ところどころできらきらと光っている。川面に映る自分をじっと見ているうちに、夢のことが思い出され、ふと死んだならこんな嫌な夢を見ることもないのにと思ったりした。やがて、吸い込まれるような不思議な感覚になり気を失ってしまった。
気づいたとき、病院にいた。どうやら投身自殺を図ったことになっていることを知った。死を想像したのは事実であったが、睡眠不足によるめまいで川に落ちてしまっただけだと美沙子は思った。自殺など馬鹿馬鹿しいと思っていたものの、あえて否定するようなことはしなかった。
退院後、落ちた河に行ってあれこれ考えた。
『死ぬことなんか、思ったほど難しいことじゃないわ。そして、死ねば何にもなくなってしまう。どんなことも全て消えてしまう。あまり重大に考えるのは馬鹿げている、ましては恋の悩みなんか』という結論に達すると、急に目の前が晴れたような気がした。
夫が「俺との結婚生活が嫌なら、離婚していいぞ」と言った。
「お前が自殺を図ったことが社内で広まり、俺は出世街道を走れないと専務に言われたよ」と皮肉たっぷりに言った。
美沙子は「離婚しようと思ったことはない」と言おうと思ったが止めた。反対に「あなたがそうしたいなら、いいわよ」と答えてしまった。結論からいえば、どうでも良かったのである。
直ぐに離婚の話はとんとん拍子に進んだ。美沙子は多額の慰謝料をもらい、その金でマンションを買い独り暮らしを始めた。マンションに引っ越ししたとき、不思議と清々しい気持ちだった。
ひと月が過ぎた。
突然、タケルから美沙子に電話がかかってきた。
何を思ったが、神社にお参りに行こうと言い出した。美沙子は乗り気でなかったが、あまりに強引な誘いだったのでしぶしぶ承諾した。
お参りした後、いつしか神社の近くの河に来ていた。
｢何をお願いしたの？｣と美沙子は聞いた。
｢別に、美沙子は神仏を信じているのかい？ 僕は賽銭をあげてきただけだ。後は健康であればいい。自分の道は自分で切り開くよ、神仏に頼ろうと思わない｣
｢私もそんなこと考えたことがないけど…｣と微笑んだ。
明らかに美沙子は困惑していた。タケルは何事も理詰めで考える。美沙子は、その合理的なものの考え方に、何かしら疲れるものを感じずにはいられなかった。愛されているという思いより、過去を振り返ると、疲れる思いをした方が多かったことにも気づいた。
雨が降ってきた。
｢雨よ｣と少しうわずった声で美沙子は言った。
｢帰ろう｣とタケルは優しく言ったが、その裏に何かしら強制めいたものを感じずにはいられなかった。
｢もう少し、ここにいるわ｣
｢どうして？｣
｢もう少し、雨を見ていたいの。河に降る雨を見ていたいの｣
｢少し変わったな｣とタケルは言って美沙子に背を向け歩いた。
「いったい何があったんだ」と聞いた。
「知っている？ 私、この河に落ちたの」