舞うが如く 第七章 1~3
舞うが如く 第七章
(1)「絹」の故郷
日本に養蚕(ようさん)技術が伝わってきたのは、大変に古く
弥生時代の中頃からと言われています。
上州(群馬県)では、古くから養蚕が行われていたと推定されていますが
記録上で確認できるのは、奈良時代からです。
江戸時代に入ると、生活が豊かになり
国内産の生糸の需要がたいへんに高まります。
それにつられて、農民たちの養蚕への関心も大きくなります。
絹を織る桐生市や、銘仙織りで知られる伊勢崎市なども、
この江戸時代において大きな発展を遂げました。
この時代には、「蚕書」と呼ばれる
養蚕の指導書が盛んに作らています。
それらの多くは翻訳をされ、海外へも発行されていきました。
これはおそらく、日本農業の技術書として
最初に、外国語に翻訳されたものだと思われます。
幕末から明治にかけて、大きな課題となっていたのが、
蚕の病気対策と飼育方法の改善でした。
日本政府が最初に始めた蚕の研究は、蚕病防除のための研究でした。
(1)「絹」の故郷
日本に養蚕(ようさん)技術が伝わってきたのは、大変に古く
弥生時代の中頃からと言われています。
上州(群馬県)では、古くから養蚕が行われていたと推定されていますが
記録上で確認できるのは、奈良時代からです。
江戸時代に入ると、生活が豊かになり
国内産の生糸の需要がたいへんに高まります。
それにつられて、農民たちの養蚕への関心も大きくなります。
絹を織る桐生市や、銘仙織りで知られる伊勢崎市なども、
この江戸時代において大きな発展を遂げました。
この時代には、「蚕書」と呼ばれる
養蚕の指導書が盛んに作らています。
それらの多くは翻訳をされ、海外へも発行されていきました。
これはおそらく、日本農業の技術書として
最初に、外国語に翻訳されたものだと思われます。
幕末から明治にかけて、大きな課題となっていたのが、
蚕の病気対策と飼育方法の改善でした。
日本政府が最初に始めた蚕の研究は、蚕病防除のための研究でした。
作品名:舞うが如く 第七章 1~3 作家名:落合順平