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もう要らないよ

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「雨女なの?」
 彼はくすくすと笑っていた。私はなんだか恥ずかしくなって、「そうでもないです」 とだけ、返した。
 この間夕暮れを見に行こうと思って土手にいったけれど曇っていたから見れなかった、という話をした矢先だったから、不機嫌っぽくうつってしまったかもしれない。私は、「じゃあ、今見に行こう」と歩きだした彼のやさしいことに泣きたかったのだ。けれど、人前で泣きたくない、ましてや彼の前でなんて一切弱いところを見せたくなかったので、素っ気ない態度と言葉ばかりを返していた。
 それから、冷たい態度ばかりとるのには、また別の理由があるのだ。それは、私は彼のことが好きだ、ということ。たぶん、とても、好きだ。それでも、彼には付き合っている私じゃない恋人がいる。そんな彼や彼女に私は敵わない、だから、誕生日だけ、我が儘を、と思って誕生日の一日後の今日を一緒に過ごしていた。
 空を睨んでも、雲はいつまでも厚かった。けれど、かすかな雲の隙間にオレンジ色が見える様子や、向こう岸のマンションが水面でゆらゆら揺れている様子は面白かったし、彼もそんな景色が好きそうだった。なにより、この日は初めて電車を下から見上げた。川にかけられた橋の上をガタタン、ガタタン、と十分に一本は必ず頭上を電車が通った。この橋の下で私と彼は体育座りしてなかなか途切れない話をしていた。川の奥の方の橋では車やトラックが忙しそうにきちんと整列して前進していた。雨あがりだったため、コンクリート色の橋からこぼれる雨水が水溜りや川の水面に打たれぺちゃん、ぺちゃんと鳴る様子も愛おしかった。
 そんな景色が、恋情によって網膜に焦がされたのだ。

 彼は前髪が長かった。おまけに目も細いから私は思ったままに「どこみてんのかわからない」と言った。彼は「そうかなあ」と言いながら口角が上がったから、あ、笑ったんだ、と思った。さらさらとしなる風の音がそれを教えてくれた。それから彼は仕返しみたいに私のことをじっと見てきた。耳が熱いから目をそらすと、「どこみてんのかわからないって言うから、見たのに」と私をからかっていた。

 川の上を駆ける電車は、せわしなく向こうに行ったりこっちに帰ってきたりした。最初は電車の真下にいることをすごいすごいとあんなにはしゃいでいたのに、今ではすっかり落ち着いてその様子をあたたかい布でくるんでいた。
 私はふと、「電車の音って一定ですよね」と言った。そのあとにすぐまた次の電車が向こう側からガタタン、ガタタンとやってきた。ガシュン、と最後尾までが橋から抜け出して、彼は少し沈黙していた。ふいに、思い付いた、みたいな顔をしながら、
「これは呼吸の音みたいだ」
 と彼は発言した。けれど、私は彼と同じくこの電車の音に耳を澄ましていたから、私にも意見が用意されていた。
「心臓の音みたい」
 言ってすぐ、こちら側から電車がやってきた。ガタタン、ガタタン、うん、やっぱり呼吸じゃなくて、これは心臓の音、と私が決めつけたのは、あの日通った電車は知らないことだろう。
 後日思ったのだけれど、呼吸、心臓、これはどちらも止まると死ぬものだ。ああ、ばかみたいに彼と私の間に関係のないことである。

 雲が流れていくのを彼に伝えたら、「置いていかれてるって感じがする」と言った。私は、「忙しそうだなって思う」と返した。
 あちらこちら電車が通るたびに私たちの会話は掻き消された。けれど、私の話の途中であれば彼が耳を寄せてくれたし、彼の話の途中であれば私も同じようにした。彼も私の耳に近づいてきて話を続けていたことと、こそばゆいことを、思い出しては何度も何度も困った。
 彼に話したいことでもなんでもないような話もした。彼は全部を聞いてくれて、最後にこれだけを言った。
「キミは無人島では暮らせないね。ひとがいなくちゃだめそうだ」

 電車の音をまったく自然に受け入れるようになっていくうちに、いつの間にかあたりは暗かった。暮れてしまった、暮れてしまった、と思った。そんな私に、彼が少し目線を外しながら「誕生日おめでとう。一日遅れちゃったけど」と言い、両手におさまりそうなサイズの、洋菓子屋さんの紙袋を差し出した。私はずず、と身体の内側がもろくなってゆくのを感じた。私の中にいままで住んでいた鋭利なものや鉛のようなものが、気が抜けたようにぼたりと落ちてしまったみたいだ。中には薔薇柄の白地のナプキンで丁寧な包装をされた四角い箱と、綺麗な名前をした作者のうすい詩集が一冊入っていた。
「雨の日に読むといいよ」
 なんて、笑った。私はその顔を見て、これが私のすべてなんだ、と思った。こんな誕生日は二度と来ない、と思った。彼といつまでも言葉をはがきのように送り合いたいと思った。
「寒くなってきましたね」
 と、私は向こう岸のマンションに灯りがともるのを見ながら、言葉を返した。

 部屋で詩集をぱらぱらとめくると、紙面にぽたぽたとおとされている文字よりも、この詩集からにおう、あまいお菓子みたいなにおいに出くわして気を惹かれていた。
 こつこつと一日を重ねるごとに、においが消えてしまっていく様を手に取りながら私はいつまでも会えない彼と過ごした電車の音を思い出す。
 あなたという憧れに潰されそうなまでの、中途半端なしあわせを有難う。


作品名:もう要らないよ 作家名:らた