HOPE 最終部
Episode8 願い
「ハアッ、ハアッ」
隼人君は私を自転車の荷台に乗せ、息を荒げながら、真夏の太陽が照り付ける坂道を登っていた。
息を荒げながら隼人君が言う。
「やっぱり、バスに乗った方が良かったかも」
「ほら、頑張って。学校までもうすぐだから」
ポンポンと彼の肩を軽く叩いてやる。
この坂を登れば、そこはもう学校だ。
夏休みが始まって間もない日、私のかつて住んでいた屋敷に二人で旅行へ行った。
そこで隼人君は言ってくれたのだ。
「また、沙耶子のピアノを聞きたいな」
そう言う訳で、どこかピアノが弾ける場所がないかと探した結果、学校の音楽室が一番良い、という事になった。
歩いて行くのも辛いので、二人で彼の自転車に乗って行く事にしたのだ。
頬を撫でる夏の風は気持ち良いけれど、私を荷台に乗せて自転車を漕いでいる彼は、思いのほか辛そうだ。
「降りて歩こうか?」
「何のこれしき!」
力一杯にペダルを踏み、ようやく長い坂を登り切った。
坂を登り切ったすぐそこには、目的地である学校がある。
校庭では野球部やサッカー部の様な、運動部が声を張り上げて、部活に励んでいる。
隼人君はそれを見て呟いた。
「青春してるなぁ」
「何言ってるの?」
私は隼人君に向けて笑顔を作る。
「私達も充分に青春してるよ!」
「ああ、そうだな」
職員室で許可を取り、音楽室に入った。
隅にはグランドピアノが置いてある。
鞄からホープの楽譜を取り出し、譜面台に置いた。
椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
近くに置いてある教卓に隼人君が座り、私に向けて頷く。
それを合図に演奏を始めた。
誰もいない廊下、教室。
閑散とした校舎にホープの音色が響いた。
演奏が終わった頃には、いつの間にか暑さも忘れていた。
「いつ聴いても良いな」
「ありがとう」
「沙耶子は、将来はやっぱりピアニストか?」
私はクスクスと笑いながら答える。
「なれる物ならね」
「なれるよ」
「え?」
「その曲と沙耶子の腕があれば」
曲の事はともかく、自分の事を言われると少しだけ照れてしまう。
「うん。目指してみようかな……ピアニスト」
ふと、部屋の隅に置いてある本棚に目が付いた。
そこには数冊の本やアルバムが入っている様だ。
私は四つ折りにした楽譜を、その本棚の中の、本の間に差し込んだ。
「沙耶子?」
「もしかしたら、これから先、この楽譜を見て、演奏してくれる人がいるかもしれないから……」
「ああ、そうかもしれないな。これから入って来る新入生が、この楽譜を見て演奏するのかもしれないな」
私は誓った。
たくさんの人に私の音楽を聞いてもらう。
そして、いつか……。
「いつか、本当の母さんに、私が弾くホープを聴いてもらいたいな。そんな日、来るか分からないけど」
「来るさ。前にも言っただろ。希望を捨てるなって」
「うん! そうだね」
もしかしたら私の事なんて、あなたにとっては眼中にないのかもしれない。
それでも、もし夢を叶える事が出来て、たくさんの人が私のピアノを聴いてくれるようになったら、あなたは振り向いてくれますか?
母さん……。
「はーい!」
後ろで元気良く返事をする、女性の声がした。
「え?」
振り向くと一人の女性がいた。
まだ、二十代半ば程の容姿をしている。
「ちゃんと聴いてるわよ。あなたのピアノ」
彼女はにっこりと笑う。
「もしかして……母さん?」
「そうよ。それ以外の何だっていうのよ?」
母さんが、すぐ側にいる。
そう思うと、胸が苦しくなり、目蓋が熱くなった。
「……母さん」
そう呟くと、目蓋から涙がこぼれた。
母さんは「あらあら」と言いながら、私の頬にこびり付いた涙を指で拭ってくれた。
「あの日と変わらないわね」
「あの日?」
「そう。あなたが生まれた日。あなた、凄く泣いてたわ。私も一人娘が出来た事に感動して、嬉しくて泣いちゃったけれど」
母さんが泣く姿を想像して、少しだけ笑ってしまった。
「あ! 笑ったなぁ!」
クスクスと笑う私を見て、母さんが頬を赤くする。
「母さん……なんか可愛い」
「そう? でも沙耶子も可愛いわよ。さすが私の娘ね」
母が胸を張る。
「そういえば、彼氏は出来たの?」
「えぇ!? 何を突然!」
「親として気になるのよ」
彼氏……。
しまった! 母さんに会えた事が嬉しくて、隼人君の事をすっかり忘れていた。
隼人君を見ると、完全に寝ていた。
演奏を聴いていて、気持ちが良くなってしまったのだろうか。
涼しげな顔で、すーすーと寝息を吹きながら、穏やかそうに眠っている。
「あちらは、あなたの彼氏?」
「うん!」
「へぇ。可愛い子じゃないの。恋人は大事にしてあげなさいよ」
むしろ、大切にされているのは私の方だ。
私はゆっくりと首を横に振った。
「というより、逆に私が守られてる感じだよ。隼人君は、私の事をいつも第一に考えてくれる。とっても頼れる人なの」
「そう」
なんだか、悲しげな顔をしている。
「どうしたの?」
「なんだか、寂しいな。沙耶子が少しだけ離れた感じがする」
「でも、私も寂しかった」
「え?」
「だって、今日まで、本当の母さんに会った事がなかったんだよ!」
母さんは私から目を反らした。
「ごめんね。家の事情で仕方がなかったのよ。本当にごめんね」
「もし、母さんがいてくれたら、毎日が楽しかったのに……」
「いつか、私と住める日が来るわよ。希望を捨てなければね」
「……隼人君も言ってた」
「あら、気偶ね。あの子とは、とってもウマが合いそうだわ」
きっと、母さんは私の側にいなかった事に関しての話題を、反らそうとしている。
「ねえ……」
「何?」
「このまま、ずっと一緒にいてくれるよね?」
私は母さんの服の袖を掴んでいた。
もう、どこにも行かないで欲しい。
そう願って……。
「ごめんね」
母さんは私の手を、優しく袖から放す。
「?」
「もう、行かなくちゃ……」
「どうして? まだ、いいでしょ?」
「ごめんね」
母さんは笑いながらも、涙を流している。
「ごめんね」
そう連呼して、私の前から消えていった。
「母さん‼」
気付いた時、私の側に母さんはいなかった。
音楽室の中には、私と隼人君だけがいる。
なんだか、目蓋が重い。
さっきのは、夢だったのだろうか……。
まさか、現実の筈がない。
母さんが、こんな所に来れる訳がないのだから。
きっと夢だ。
「でも、夢でも、会えて良かった……母さん」
隼人君は未だに、穏やかそうに眠っている。
「あんな気持ちよさそうな隼人君、起こせないな……。私も寝ちゃおう」
教卓の上に座り、彼の肩に寄り添って、ゆっくりと目を瞑った。