HOPE 第二部
True episode 烏丸綾人 前篇
隼人が死んでから、もう三ケ月は経つ。
凍る様に寒々しい季節は、温かな春の季節に変わっていた。
変わったのは季節だけではない。
俺の周りで変わった事が幾つかある。
隼人の死後、沙耶子は学校を辞め、バイトをしながらピアノ教室へ通う様になった。
以前の様に、放課後に音楽室でピアノの練習をする事は当然ない。
かつて沙耶子が記憶を取り戻す前まで、好いにしていた宮村という少年は、肩の治療を終え、彼女との事を思い返す事なく部活に励んでいるようだ。
最近、この二人には会っていない。
会えば、思い出してしまうからだ。
あの日々の事を。
忘れた方が良い。
あんな日々は。
それでも、どうせ忘れられないのだろ。
現に俺は毎月、隼人の墓参りへ行っている。
隼人が自らの死を持って、俺達に今の様な安息を与えたのなら、花を手向ける事はしておかなければならないと思ったから。
だから、今日もこの霊園に来た。
郊外にあるこの霊園は、街全体を見渡す事が出来る、とても眺めの良い場所に位置している。
枯れた花を新しい物に交換し、線香を置いて墓石の前で手を合わせる。
ありがとう、守ってくれて。
そう心の中で念じ続けた。
「綾人君」
背後から声がした。
振り向くと、そこには沙耶子がいた。
「どうして、ここに?」
たしか、沙耶子は葬式の日から、ここには来ていない筈だ。
それなのに、どうして今になって?
「私、やっと気付いたの。いや、もしかしたら前から分かっていたのかもしれないけど、今の私があるのは、隼人君のおかげなんだよ」
「ああ、そうだな」
「それなのに……あの記憶が戻った日、私は隼人君を拒絶した」
「それは、光圀のせいだ」
「うん。でも、そんな私を隼人君は守ってくれた。今日まで悩んで、やっとここに来れたの」
沙耶子は俺の隣に来て、墓石の前で屈んだ。
「私の為に、凄く頑張ってくれたんだね。本当に……ありがとう。それと、ごめんなさい」
彼女は儚げな表情を浮かべていた。
「そういえば、お前の名字は平野のままなんだな」
「うん。私の名字を宮久保に戻したら、きっと……私は隼人君の事を忘れてしまうから」
この数年間に渡る出来事は、俺達の心に深い傷を負わせた。
それだけでなく、当事者の親類には死亡者もいる程だ。
光圀幸太の両親の遺体は、警察の家宅捜索の結果、二階の部屋の天井に隠されている事が分かったそうだ。
それと同時に、沙耶子を盗撮した写真や、繁華街で手に入れたと思わしき覚醒剤も警察に見つかり、光圀の罪が一気に明かされた。
これが事の顛末だ。
実を言うと、俺にも非はある。
俺や沙耶子が隼人と出会う前、その頃から光圀は沙耶子に接触していたのだ。
もしかしたら、俺がその事を察して行動を起こしていれば、隼人があんな事をする前に、この件は終わっていたのかもしれない。
それに、もしかしたら俺の思いも伝えられたかもしれないのに。
隼人にも、誰にも話す事はなかった彼女への想い。
「じゃあ、私はもう帰るね」
沙耶子は立ち上がり、去って行く。
「待ってくれ」
俺は意を決して沙耶子を呼び止めた。
彼女はこちらを振り向く。
「沙耶子、今まで、すっと言えなかったけど、俺はお前の事が好きだった」
俺はポケットに入っているリストバンドを、沙耶子に差し出した。
そして、もう一つ。
それは今、彼女の腕に着いている。
俺はリストバンドを墓石の上に置いた。
「お前の事が好き、そう言いたくて、この数年間を過ごして来た」
沙耶子は申し訳なさそうな顔を見せる。
「綾人君……私は、まだ隼人君の事が……」
「いいんだ。もう、いいんだ。俺はただ、この言葉をお前に伝えたかっただけだから。それに……」
「?」
「それに、これでお前との関係を清算出来た。もう、俺とお前は赤の他人だ」
沙耶子は俺の服にしがみ付く。
「どうして!? どうして、そんな事を言うの!?」
「お前の為だよ。もう、お前は一人で生きていける筈だ」
「嫌だよ!」
喚く彼女の頭を、軽く撫でてやる。
「あんな事があったんだ。俺とお前が一緒にいたとしても、辛いだけだ」
「嫌だ! 嫌だ!」
彼女の喚きは止まらない。
「大丈夫だ。お前には隼人がいる。あいつが見守っていてくれる。大丈夫だ」
彼女の目からは、やがて涙がこぼれだす。
「嫌だ……嫌だよ……」
小さくて細い彼女の体を優しく抱いた。
「大丈夫。お前なら大丈夫だ」
「でも……」
「待っている……人がいるんだ……」
「え?」
「とても大切な……俺の……大好きな人なんだ……」
諦めてくれたのだろう。
彼女は涙を流しながらも小さく頷いた。
「沙耶子、今までありがとう。辛い事も多かったけど、割と楽しかったよ」
その言葉を最後に、俺は沙耶子と別れた。
今までの出来事は全て、自分の人生の一部に過ぎない。
俺にとっても沙耶子にとっても、どんな人にとっても、それは同じ事。
だから人は前進を止めない。
かつて、隼人がそうだったように。
勿論、俺もそうだ。
隼人の取った行動、あれは自己犠牲であって、決して最善の行動とは言えなかった。
しかし沙耶子や俺、他の連中が今こうしていられるのは、隼人のおかげだ。
だから俺は沙耶子の側にいる必要は、もうない。
守ってやる必要も、元気付けてやる必要もない。
ポケットから携帯を取り出し、日付を確認する。
今日は四月三十日。
あと、約一カ月。
その期間が来たら、俺は療養中の妹の元へ行く。
これが、俺にとっての前進だと信じているから。
真っ青に澄んだ青空を見上げ、呟いた。
「ありがとう。隼人」