『暴かれた万葉』 8
第二十三節 弘文天皇と伝説
(前略)
史に伝ふる所によれば、壬申の乱に吉野軍は不破鈴鹿倉歴乃楽山等の
要路を塞き、さらに諸将をして右京及ひ諸道を守らしめ、而して不破より
近江に向へる村国男依の軍は連りに官軍を破り遂に進みて瀬田に逼る、
とあれは官軍は殆んと全く包囲せられ、其逃路なきものの如し。然れば
男依等の軍、七月廿二日瀬田に逼る。官軍支ふること能はずして敗走し、
男依等追撃して粟津に進む。天皇走って山前に隠れ給い其の翌廿三日
崩御し給ふとあるは、疑を容るべき余地なきが如し。ただ廿ニ日山前に隠れ
給ひ廿三日崩御し給ひしとあれば其間一夜の間隙あり。此間に於て如何
なる後図を策し給へるか、いまはの期に與多王を召て太子におはしましける
時のこの山前の家地に寺を建立すべきよしを遺詔し給ひたりしが、今昔物語
に皇子田猟を好み猪鹿を殺すを事とし給ひ常に御身に弓箭を帯び軍士を
率て山に入て獣を狩給ふなど御性柔仁の方には遠くましましけんとあり。惟みる
に資性勇猛身体強健にましまし常に山野を跋渉し給ひしとあれば、其の家地
付近の地理には通し給ひしならん。かかる御性質と御境遇に於ていまはの期に
造寺の事を遺詔し給ひ、しかも自ら縊れて崩し給ふと、一方の血路を開き後図
を策し給ふと、いつれか其平生にかなへるものとすべき。御衣は酷似せる者の身
に被り敵勢を緩むる策となり、狩猟によりて学ひ給ひし鳥径樵路は難を避くべき
潜幸の路となりしやも知るべからず。軍興るのはじめ、近江にては三士を東国に
遣して兵を徴す。然るに不破を超ゆること能はずして二人は捕はれ一人は逃げ
帰りて使命を果すこと能はざりきといふ。東国は地広漠として士馬精強なり。
天皇望を属し使を遣し兵を徴せしも、道路梗して其意を果すこと能はず。然れども
これ決して絶望の地にはあらざるなり。天皇の再挙を謀り後図を策する、この地の外
に出ずるなからん。実に東国は其鵬翼を養ふの地たりしなり。然らば天皇は東国に
潜幸し給ひしか。所謂正史なるものは固より之を曰はず、唯口碑野乗に於いて之を
伝ふるのみ、而してまた本郡には天皇の遺跡と称するもの多し
続
作品名:『暴かれた万葉』 8 作家名:南 総太郎