髪を切った理由。
ヒロキと半同棲関係になって半年。
調剤薬局で働く薬剤師のヒロキと、天神の岩田屋で働くアタシ、美樹は同じ年の28歳。
出会いは劇的だったな。
あの頃、3年間の不倫関係にあった彼氏に捨てられ、アタシは毎晩、浴びる様に飲み歩いていたっけ。
---男なんてみんな嘘つきだ!---
赤坂界隈のバーで、毎晩、酔っ払ってクダを巻くアタシに、友達も早々付き合ってくれなくなった。
あの日、いつもの様に、警固のワインバーで、マスター相手に絡んでいたアタシ。
---あいつ、奥さんと別れて、一緒になるって約束したのに---
---独りで部屋にいると死にたくなっちゃうよ---
---ねえ、マスター。一回でいいから抱いてよ---
自分でも、何が何だかわからなくなっていた。
マスターは相槌を打ちながら、苦笑するだけ---。
「やめなよ、そんな飲み方は。」
突然、アタシのワイングラスを取り上げる手。
「何すんのよ!返してよ!」
アタシは思い切り、手の持ち主を睨みつけようと横を向いた。
油気のない髪に、慈愛に満ちた笑顔----それがヒロキとの出会いだった。
「---辛いなら---絡んでないで、思い切り泣けばいい。そんなに乱暴に飲んじゃ、折角のワインが可愛そうだよ。」
低音で落ち着いた声。
「---アンタなんかにーーーーアンタなんかにーーな、何が判るのよ---」
悪態をつきながらも、ヒロキの顔を見て、アタシの中の感情を閉じ込めていたダムが決壊したらしい。
「---泣きなよ。ね、マスター、いいよね?」
マスターが頷く。
「----うっ、うっ---あっ、ああっ---ええ~んっ----」
涙が止めどなく溢れる。
顔を抑えた両手もビショビショだ。
ヒロキが左腕で、アタシの方を優しく抱いた。
アタシはヒロキの胸に顔を埋めて泣き続けた----。
大きくて、暖かいヒロキの胸に---。
アタシの部屋にヒロキの荷物が引っ越してきたのは、その夜から一週間後。
その日を境に、アタシの居場所は、ヒロキの胸になった。
毎晩の様に、アタシはヒロキを求め、ヒロキは、それ以上情熱的にアタシを抱いた。
現金なもので、昔の男のことは、アタシの中から完全に消えていた。
そんな生活に満ち足りていたアタシだったが、この1~2ヶ月、ヒロキに以前の情熱がなくなって来た様に感じ始めた。
アタシは、毎晩でも裸でじゃれあっていたいのだが、最近は、「疲れてる」「今日は寝かせてくれ」と背を向けられる事が多くなった気がする。
「今日は自分の部屋で寝る。」と言われる事も増えた。
そんな不安を、ヒロキと出会った、あのワインバーのマスターに相談。
「美樹ちゃんは情熱家だからね---」
そう、アタシは火の国、熊本の女だ。
「ヒロキ、アタシに飽きたのかな?」
「そうじゃないよ、多分。」
「じゃあなんで?」
「女に、生活の安定を求める本能がある様に、男にもあるんだよ。」
「本能って、どんな?」
「思い出してご覧。出会った日の事を。あの日の美樹ちゃんは、最悪に酔っ払って絡んでたけど、一途な女心のフェロモンが溢れてた。ヒロキ君は、そこに惹かれたんだよ。」
「でも、アタシ、あの日から変わってないよ。ヒロキに対する態度も。」
「だからだよ。」
「だから?」
「そう。刺激がなくなって来たって事。人間は慣れると同時に飽きるからね。」
「じゃあ、アタシ、飽きられたの?ヒロキに捨てられるの?」
「そこまでは行ってないと思うけど---美樹ちゃんが、ヒロキにとって新鮮な存在に写る様な努力は必要だね。」
「新鮮って?」
「いい意味で裏切る事さ。おっ、俺、こんな女知らないゾ!って思わせるんだよ。ま、自己演出だね。」
アタシの頭に、アイデアが閃いた。
翌日、アタシは10年間伸ばして来た自慢の髪を思い切ってカットした。
---美樹の黒い長い髪が、白いシーツに広がるところがいい---
ヒロキが、アタシを抱きながら、いつも撫で付けてくれた長い髪。
この髪、ドレッシーなファッション、甘えん坊----今日で全部リセットだ。
ヒロキにとって、全く違うアタシを魅せるために---。
夜、ヒロキが帰宅した。
アタシは、気づかないふりでキッチンに立っていた。
普段と違う、ショートパンツにダブダブのシャツを着て---。
「---美樹---」
ヒロキが後ろから抱きついてきた。
吐息が興奮している----。
「お帰りなさい、ア・ナ・タ---」
アタシは、耳元で囁いた----。
「---どうしたんだ、その髪---その格好---」
露になった首筋に、ヒロキの唇が、強く、押し付けられる----
----こんなの久し振り---
マスターのアドバイスは効果覿面!
ヒロキは、あの日から、毎晩アタシを求めてくる。
時には、忙しい朝の時間でも----。
女が髪を切る事。
その深い意味には、アタシみたいな理由もあるのかもしれない----。