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ある喫茶店の朝

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 まだ客足も少ない朝の店内。レースカーテン越しに差し込む朝日を受けたカウンターの内で彼はコーヒーカップを磨いていた。落ち着いたクリームホワイトのカップを一つ一つ、丁寧にクロスで磨く。それが毎朝の習慣なのだ。宝物を扱うように優しく掌の上で包むように磨いていく。ゆっくりと時間をかけて、お客様の前に出すのに相応しいように。そうして一つ磨き上げれば、自然と口元にやわらかい微笑が浮かんだ。
 一つ頷いて、振り返って食器棚に戻した。ちょうどその時だった。背後で勢いよく扉の開かれる音。入口に取り付けてる小さなベルが小刻みに高く鳴った。彼は反射的に振り向いた。入口の所には一人の若い男性。新社会人風の真新しいスーツを纏っていた。その男は扉を後ろ手に閉めてまっすぐカウンターの方へと早足で歩いて来た。どうやら相当の距離を走ってきたようで、荒い息遣い。肩も上下していた。男は彼の前に立ち、カウンターに両手を付いて顔を上げた。一瞬息を詰めて、それから急にへらりと相好を崩して言った。
「お水を一杯、頂けますか?」
 その笑顔には見覚えがあった。ここ一年ほど頻繁に足を運んでくれた大学生だった。彼は少し考えて、そして言った。
「今日はコーヒーじゃないんですね?」
 すると彼は驚いたように目を見開いた。鼓動を抑えるように胸に片手を当てて深呼吸。
「お水の後に、いつものお願いします」
 彼は頷きで答えカウンターの下にしまってあるグラスを取り出した。カウンターの上にあったレモンと氷を入れてある飲料用の水が入った水差しから水を注ぎ、彼の前に差し出した。男はそれを受け取って、あおるように一気に飲み干した。良く見ると男の髪には寝癖が若干残っていた。ネクタイの締め方も少し不格好だ。寝坊して大慌てというところだろう。男はグラスを置いて手の甲で口元を乱暴に拭った。
 彼はグラスを回収しながら悪戯に声をかけた。
「寝坊したのに、こんなところに寄り道していいんですか? 寝癖がついてますよ」
 すると男は人好きのする幼い笑みを浮かべ、照れたように頭を手櫛で梳かしながら言った。
「いや、確かに寝坊したんすけど……まだ、説明会まで時間ありますから! ここに来る時間作るために全力で用意して家出たし」
 大丈夫です、と背筋を伸ばして言う男に、彼はつい笑いがこぼれた。
「わかりました。いつもご贔屓にしてくださって嬉しいです。さ、席について下さい。今最高のコーヒーをお淹れします」
作品名:ある喫茶店の朝 作家名:庭床