奏とかなえ
奏は、母に疎まれていた。奏の母は売れない芸術家で、娘には人並みの人生を歩んでほしいと期待をしていた。しかし奏は、お母さんのようになるのだと絵ばかり描いていて勉強しない。それが余計に母を腹立たせた。奏の理解者は祖母の頼子だけで、いつも頼子の家で絵をかいていた。頼子は孫娘をかわいがり、好きなだけ絵を描かせた。
かなえは、野田島中学校の三年生だった。高校に進学することはとうにあきらめていて、夏が過ぎても相変わらず絵をかいていた。
「原田さん、絵をかいてるの」
担任の飯野先生だ。彼女は新任の若い美術の先生で、生徒からも人気があった。
「どうせ、高校には行けないから。お父さんがお金出さないって」
「そう、じゃあ、原田さんは来年からどうするつもりなの?」
「きめてません。家出でもしようかな」
普段、人と話さないせいで自分でもびっくりするくらい暗い声だった。そんな声に不安になったのか、飯野先生がつぶやいた。
「原田さん、絵を、日報展にだしてみない」
たった一言で、未来が変わることがある。奏は、中学三年生にして、それをよく知っていた。母が売れない絵描きなのも、生活を支えていた父が過労で倒れたのも、母が自分にまっとうな人生を送ってほしいと願っているのもわかっていたが、自分なら大丈夫だという自信があった。小学校二年生の時に出品した絵についた批評は私を興奮させた。「色遣いが美しく、特選に値する」。その一言が、絵描きを目指すきっかけの、その一言だったのだと今にして思う。
「ああ、結果はまだかな」
今月の日報展には、母に内緒で出品していた。
関東支部長賞。そう書かれた賞状を受け取った私は、呆然とした。飯野先生に勧められて出した展覧会だったが、初めて自分の価値を認められたような昂揚感。この賞はこの展覧会では一番のもので、この絵がそのまま来月の全国報道展に出品される。ここで賞を取れば、高校に行かなくても、どこかのアトリエから声がかかる。それくらい大きな展覧会だ。
「原田さん、すごいじゃない」
飯野先生の声だ。
「私は今年は審査員ではなかったけど、もしそうだったら必ず入れたわ。それぐらいいい絵だった」
「ありがとうございます」
「きっと、全国展でも注目されるわよ」
「・・・だといいですけど」
素直に褒められるのは、少しこそばゆい。
「なんでまた絵を描いたの!」
母が怒っている。いつものことだ。お父さんが倒れてから、いつもこうだ。消して私を誉めない。たとえ賞を取っていてもだ。
「しかも、こんな程度の賞で」
さすがにこれはカチンときた。確かに一等ではなかったけど、日報展での支部奨励賞だ。上から三等の賞で、来月の全国展も決まった。
「でも、全国・・・」
「一度負けた絵で、全国でとれるはずないでしょ!」
一蹴。いくら売れないといっても、絵のことで母に対抗するのは分が悪い。なんたって腐ってもプロだ。大方、出品された絵は見ているのだろう。実際のところ私から見ても一等を取った絵は素晴らしく、非の打ちどころがなかった。
「あんたには絵描きは無理、あきらめなさい!」
「なんでよ、全国展でどこかのアトリエから声がかかったら・・・」
「一等も取れない絵でプロになっても通用しないの!わかったら部屋に帰りなさい!」
さわらぬ神にたたりなし、だ。私は退散することにした。
全国報道展。その会場に私はいる。きっと大丈夫。どこかのアトリエから声がかかる。緊張を何とかこらえる。もうすぐ発表だ。
「心配しないで。大丈夫よ」
飯野先生が励ましてくれる。
「発表します。全校報道社最高賞、原田かなえさん。『夕暮れ』」
「・・・やったわね、原田さん!!」
私の、プロへの道が開けた瞬間だった。
それからデビューまでは早かった。佐々木画廊から声がかかり、立て続けに三作を描いた。どれもそこそこ認められたが、その後がいけなかった。結局、年に数作しか売れず、賞には選ばれない貧乏画家人生が待っていた。
アトリエの二男の浩二さんと結婚して、子供も設けたが、浩二さんは過労で倒れ、私は苦しい時期を送ることになった。
私の精神的な支えは、義母の頼子さんだけだった。
「今年の賞の発表です。選考委員、飯野先生お願いします」
あ、隣のクラスの先生だ。と奏は思った。
「発表します。全国報道社優秀作品賞、佐々木奏さん、『岬』」
・・・四番手の賞だった。一等は、関東を獲ったあの子。それでも、私にもいくつかのアトリエから声がかかった。
「佐々木さん」
「あ、飯野先生」
飯野先生は、五十代後半の先生だ。私立野田島学園中学でずっと美術を教えているというおばあちゃん。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「さすが、原田さんの娘さんね」
「お母さんを知っているのですか」
「ええ。私があの子をこの道に引きずり込んだ。才能はあったのよ。あなたと同じこの展覧会で一等を獲ったの。そのあと、あなたのおじいさんのアトリエからデビューした」
「でも、売れなかった」
「あなたのお父さんは必死に売り込んだけど、プロに行ける才能はなかった。結局、お父さんは倒れ、原田さんの絵も低調のまま」
「・・・」
「だからね、あなたのお母さんは佐々木さんにそんな道を歩んでほしくなかったのよ」
私は、よくわからぬままに家に帰っていた。手には、美大との一貫高校の推薦状と、二十年以上前のポスターを抱えていた。
『昨年度最高賞、『夕暮れ』原田かなえ』
飯野先生のくれた推薦状のおかげで、高校へは無償で進めることになった。条件は、大学の美術教師養成課程へ進むこと。頼子おばあちゃんは、私が絵を続けることを歓迎していたし、お母さんも教師なら、と言ってくれた。
それから十年。私は、私立野田島学園で、飯野先生の後任として働いている。