天魔
その性が社会を作り、仕事を作り、現在においては(形而上的表現にはなるが)人と人とが"繋がる"ことが容易となった。
しかし人は哀しい生き物である。どんなに人を喜ばせても、どんなに人を信じても、全ては自分を慰めることにしかならないことを、この長い歴史をもってしても気づいてはいない。いや、気づきつつ、気づかないふりをしているのかも知れない。いずれにせよ、私は哀しいとふつふつと思う。
人には"人生の尺度"というものが存在する。
それは十人十色であり、必ずしもまったく同じ尺度を持つものはいない。人は(真に哀しい事であるが)自分の尺度で相手を"はかる"のである。残念ながら、私はこの場合において"はかる"の正しい表記を知らない。物量でもなく、角度でもなく、人間という入れ物の中に存在するある種"魂"のような存在を表す正確な表記を、私は見つけることができなかった。
ともあれ人は自分の尺度で相手を"はかる"。相手のもつ"人生の尺度"を度外し、自分の決めた枠にはめ込むのである。自分の尺度にはめ込む事が、その人間を自分の世界の中に存在させる唯一の手段なのだ。
そういう行いを非情だと思い、自分はやっていないと主張する人間もまた存在する。
そういう人間は真に嘘つきである。自分の"人生の尺度"の精度を著しく歪ませ、相手の好意と自分の善悪を秤に掛けるのだ。自分に嘘をつくことで、相手を尊ぶことを私は善しとしない。それは自分を尊ぶこと無くして、相手を尊ぶことはできないからである。
もし善悪の境界が明らかになったとして、人はどちらの側で生きていく者が多いのだろうか。幾万もの哲学者が考えたその先に、人は答えを見つけることができるのだろうか。もしその者が現れたとしたならば、その者はきっと悪の側に立っているのであろう。何故ならば、人は異端を嫌うからである。人は他人によって考えを改めることを嫌うからである。人は自分が否定されることを怯えるからである。人は自分の世界の穢れを認めないからである。人は人間という枠から外れて考えることができないからである。思考や秩序や倫理とは、結局のところ人間が考え、創造するものだからである。
"人生の尺度"とは可変である。しかしその精度までもが可変であるのなら、自己とは一体どこに存在するのだろうか。出生や環境、体験が自己を常に可変として決めるのであろうか。
否。と私は言おう。自己とはもともと存在などしない。何処で育ち、何を喜び、何に怒り、何を哀しむのか。何処を旅し、何に怯え、何を成そうとするのか。それは自己ではなく、体験である。体験を自己と呼び、他動的な要因でしか自己が作られないのであるならば、何故人は他人を傷つけずに生きていけないのであろうか。
性格と自己とは似て非なるものである。性格とはその個体がもつ独自の感情表現の収束体である。怒りっぽいとか人なつっこいという表現で、生物のもつ感情表現をある程度の括りに入れ、整理したものだ。
自己というものは更に複雑である。混沌とした意識の中で突発的に発生し、姿形を変えながら、本質はなにも変わらないものである。かつて人は自己の比喩媒体として水を挙げたことがある。氷、蒸気、雲、雪、姿形性質が様々に変化するものの、その本質は水である。
しかし本質は水であるという答えに、誰が正解の判を押したのだろうか。本質というものを真に見極める、いわば超能力的なものがその人間にはあったのであろうか。
自己というものは存在はしない。この表現は"奇跡"や"神"という表現に似ているかもしれない。"奇跡"や"神"という存在を、明確に表しているものはない。しかし、そう呼ばれる事象には必ず"力"が働いているのである。
"力"には必ず入り口と出口が必要である。自己とはつまるところ、人が生まれ、成長し、死ぬという入り口と出口の間ででしか発生しない"力"なのである。その"力"の在り所を、一体誰が明確に表現できるというのであろうか。
私は思う。やはり人間とは哀しいものだと。
信じていると言葉で伝え、信じていないと気づいてしまう。
正しいと思い行動し、正しいと答えてくれる者はいない。
何が正しく、何が正しくないのか。
何が善であり、何が悪なのか。
答えのでないものに対し、これが答えだと嘘を吐き散らす。
人間の世界は矛盾の上に成り立っているのだ。
人間は社会の造り方を間違えた。
人間は社会の仕組みを間違えた。
人間は社会の在り方を間違えた。
間違うことを悪だとは言わない。
しかし、間違いというものは、必ずその者に何かしらの形で良くないものとして返ってくるのだ。
それがやり直しができないものであるなら、ツケが返ってくる時間はとてつもなく短い。
気づけば肩を叩き、振り返れば綺麗な笑顔で貴方を飲み込むのだ。
私は言う。すべてを疑うのだと。信じてはいけないのだと。
他人の言葉に耳を傾けてはいけない。
他人の行動に手を差し伸べてはいけない。
他人の涙に自分が涙してはいけない。
他人の助けに応じてはいけない。
私は天魔である。
信じる事の愚かさと、信じる事の恐ろしさが生んだ魔物である。
信じる先に苦痛が待ち受けるだけなのであれば、人は人間という枠から自己を解き放ち、今再び混沌を呼び覚ますべきである。
混沌からしか秩序は生まれず、秩序からしか混沌は生み出せないのだ。