女の仁義なき戦い
夜の蝶といわれるホステス。美しい服を着て、いっとき男達の酒の相手をする。一見、華奢で、か弱そうにみえる彼女たちだが、間違っても草食系ではない。逞しい肉食系である。美しい笑顔の下には、餌食を前によだれを垂らした獣の顔がある。そうとは知らずに、男たちは彼女たちの微笑に誘われてしまう。
華やかな舞台裏では、女同士の、食うか、食われるかのドラマがある。捕食動物である男を巡って喧嘩になることは日常茶飯事である。この話もそんな一例である。
そこは『止まり木』という名の高級クラブ。客は三十名近く入る大きさである。トイレも男女に分かれている。
春のある日のことである。開店間際の午後七時。マサコがトイレに入り鏡の前に行った。ミナはまだ化粧をしている。二人の視線が一瞬あった。互いに相手を好いていない。そのうえ、あいつだけには負けられないという思いが互いにある。
実を言うと、つい最近、ミナは恋人に振られた。心の傷はまだ癒えていない。元気がなさそうなミナにマサコは声をかけた。
「どうしたの、元気がないわね?」
「心配してくれるの?」
「別に? まるで男に振られたような顔をしていたから、失恋でもして落ち込んでいるのかと思ったの」
ミナは内心、どきっとしたが、平静を装いながら、
「あら、そう、お生憎様ね、わたしは男に振られたことはないの。振ったことは星の数ほどあるけど」と哄笑した。
笑った後で、まじまじとマサコを見て、「美しいのは罪よね」と呟くように付け加えた。 誰よりもいい耳を持っているマサコにはしっかりと聞こえた。「寝言を言うんじゃない」と言いたかったが、そこはぐっとこらえた。ミナが短大生時代に美人コンテストで一位になったことを知ったからである。でも昔の話だ。もう八年も過ぎている。
マサコは「昔は知らないけど、歳は隠せないわよね。歳とともに化粧の時間が長くなるって本当のようね」と相手を小馬鹿にした顔で言った。さらに勝ち誇ったように冷やかな視線を投げる。これがマサコの癖である。確かにマサコはミナよりも四歳若い。マサコは二十四歳。ミナは二十八歳。これはマサコの屁理屈だが、マサコは四捨五入すれば二十、反対にミナは三十、その差が十歳となるのだ。ただミナも二十五歳の壁は大きいと思っている。
「この前、いい料理を食べたのよ。ミナにもその店を紹介してあげたいわ。料理長にどうして美味しく出来るのか聞いたら、旬のものを料理するのが一番というのよ。食材も女も旬が過ぎるとダメみたい」とマサコは口元に薄笑いを浮かべた。彼女は歳上のミナに敬意払ったためしがない。
ミナは腸が煮えくり返る思いを抑えて、
「あなたが旬で、私が旬でないというのかしら?」
「あら? そんなふうに聞こえて? 耳は大丈夫? ただ男は敏感に女をかぎ分けるでしょ? 旬が過ぎれば、昔、どんなに美しかろうと、男に飽きられてしまう。まさか、最近、ミナは振られたりしていない?」
「何、寝言を言っているのよ」と押し殺したような声で言った。
マサコは「寝言ね……」と呟くように言うと消えた。
一か月ほど経った日の午後のことである。
マサコが男と楽しそうに歩いているのを、ミナは偶然にも目撃した。ショックのあまり思わず倒れそうになった。なぜなら、その男というのは、ミナを振った藤山マサキであったからである。
マサキは東京に本社がある大企業の部長。二年前に転勤してきた。まだ四十代の前半である。ハンサムで長身。バツイチ。大のお酒が好きで、よく夜の店を渡り歩いている。“止まり木”もよく来る。あちこちの店で愛人がいるという噂がある。確かに彼に甘い言葉で囁かれたらどんな女も落ちてしまうだろう。
マサキがどう思っていたかは分からないが、うまくいけば、うまくいけば、結婚もできるのではないか、とミナは破局の直前までその胸を膨らませていたのである。何度も肌を重ね、身も心も許したのだから。ミナは見かけ以上に初心で、肌を重ねるということはそういうことだとう古風な考えもあった。大きく胸が膨らんだ矢先、突然の別れようと言われた。平静を装ったものの、心は粉々に砕け散った。まるで膨らんだ風船が針を刺されて“パン”と音を立てて破裂するように。
楽しそうに、まるで恋人同士のように腕を組んでいる。別れのシーンを思い出すと、今にもマサコのところに行って、『畜生! 泥棒猫みたいな真似をしやがって!』と平手うちを食わしてやりたい衝動にかられたが、やっとの思いで抑えた。『今に見ていらっしゃい。ぎゃふんと言わしてあげるから』
さらに一か月が過ぎた。
「今度の連休何か予定はあるの?」とミナがマサコに声をかけた。
「あら、どうして?」
「みんなで、温泉にでも行こうと企画しているの」
「ごめんなさい。私、彼と一緒に九州に行くの」
マサコは聞かれもしないのに、これ見よがしにあれこれとぺらぺらと喋った。飛行機を予約したことやその予約番号まで喋ってしまったのである。
「そう。羨ましいわね。楽しんできて」とミナは微笑んだが、心の中では『この馬鹿女! よくもしゃあしゃあと言うわね。楽しみにしていらっしゃい』と呟いていた。
翌日、ミナはさっそくはキャンセルの電話を入れた。そして、旅行の当日が来た。予約がキャンセルされていることを露にも知らないマサコは彼氏と二人、空港に行った。すると予約がキャンセルされていることを告げられる。呆然と立ちつくすマサコ。
「自分でキャンセルしたのか?」と呆れ果てた顔で言うマサキ。
「そんな馬鹿なことするわけないでしょ!」とヒステリックに叫ぶマサコ。
「じゃ、いったい誰が?」
「誰が……」と繰り返すマサコ。
はっと思い当たった。あいつだ!
「お前が旅行したいというから、せっかくの得意先とのゴルフコンペも断った。お前みたいな馬鹿女とは、今日で終わりだ」とマサキは怒鳴った。彼は瞬間湯沸かし器のようにキレやすいタイプだ。そして一度、こうだと決めたら、テコでも動かない。
彼の後姿を見て、マサコは恋が儚く終わったことに気づいた。
休みが終わった日の朝のことである。いつものように、ミナがトイレで化粧していた。そこへマサコがやって来た。
ミナがマサコの方を見たとき、マサコが平手打ちを食わせた。
「説明する必要がある?」と聞いた。
すると、今度はミナが、「マサキは私の大切な人だった。それをあんたが横取りした」と叩き返した。
二人の怒鳴り合いを聞きつけてホステスが集まった。二人はギャラリーがいることなどお構いなしに取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。