『総斎志異 第九話』
此の世には時として人知では説明出来ぬ不思議なことが起きるもので
御座います。此の話なども、其の類に入りましょうや。
御一新(明治維新)の直前の、慶応三年から四年に掛けての
『ええじゃないか』の大騒ぎの頃の事で御座います。
天から有り難い「御祓い」のお札(ふだ)が舞い落ちて来たのは、慶事の前兆と
噂された『お蔭参り』が切っ掛けとか聞きますが、慶事とは御一新の事だったので
御座いましょうか。
此処は、武蔵国豊島郡上渋谷村(現渋谷区の一部)の或る百姓家で御座います。
周囲を山に囲まれた谷間で、農地の少ない此の村の中でも、一際(ひときわ)小さな
百姓で、年老いた老夫婦がどうにか飢えを凌ぐ程度の僅かな田畑を耕して暮らして
居りました。
或る日、庭先に一枚の紙切れが落ちているのを、婆様が見付け、
「おや、これは何でしょ? 何か書いてある様だが」
婆さまは字が読めないので、爺様のところへ持って行きました。
「ううむ、わしも字は苦手じゃが、こりゃ、お札じゃなかろうか」
「お札? お札と言えば爺様、今流行(はやり)の『ええじゃないか』のお札と
違いますかいな?」
「おお、そうか。『ええじゃないか、ええじゃないか』と大勢で唄いながら、街中を
踊り歩く、えらい賑やかなものらしいな。それにしても、誰がお札を撒くのやら」
「そりゃ、天からひらひら落ちて来るから、神様でしょうに」
「天からひらひらか。それが、こんな田舎にも落ちて来たのかな」
「兎に角、有り難いお札を、神棚に入れましょ」
「うん、それが良い、それがよい」
婆さまは、早速其の紙切れを神棚に入れ、手作りの団子を供えました。
手を合わせ、
「有り難や、有り難や、どうか良い事が有ります様に」
と祈りました。
其の夜、二人が白河夜船の最中に、神棚に異変が起きました。
例のお札に、毛が生え始めたので御座います。
忽ち、一匹の古狸に変わるや、供えてあった婆様手作りの団子をあっと言う間に
平らげて仕舞いました。
「よいじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか、お蔭で良い事有りました」
と唄い踊りながら、ご機嫌で、山へ帰って行ったそうで御座います。
完
作品名:『総斎志異 第九話』 作家名:南 総太郎