ホワイトクリスマス
なんと言うこともない。
ただのため息だ。
「はぁ……」
かれこれ何度、繰り返しただろうか。
私の周りを歩いて行く、晴れやかでとろけそうな笑顔の数々。彼、彼女らに悪意なんてものは爪の先ほどもないのだろうが、その幸せそうに綻(ほころ)ぶ表情は、今の私にとっては何よりも辛(つら)い毒でしかない。
かと言って今日はクリスマスイブ。
ムードの欠片もないこの公園ですら幸福に満ちた表情ばかりなのだ。街などに出るものなら、たちまち毒が回って私は死んでしまうことだろう。当然比喩だが、気分としてはそんなところだ。
再びのため息が、口から漏れた。
「私はいったいどうすればいいんだろう……?」
誰に向けるでもない、ただの独り言だ。それでも、
「どうかしたのか?」
そう、こんな返事を期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし驚いたのも当然で、
「えっ!? あ、あなたは?」
声の主は、どこにでもいる平凡な青年。ちょうど私と同じか、少し上くらいだろう。
「いや、随分と落ち込んでいるようだったから、つい。せっかくのクリスマスだ。なにも憂鬱なまま過ごすこともないだろう」
「そうだけど、……それだけで?」
「同級生に声をかける理由には不足か?」
言われて、まじまじと見つめる。
そしてようやく思い至る。たしかに、同級生の一人だ。
全く失礼な話だが夜の闇と見慣れない私服のためか、言われるまで思い当たらなかった。
つい目をそらすと、
「気付かなかったのか」
と苦笑気味に言われた。
てっきり責められるかと思ったところに、不意打ちの笑み。意識していなかった分、妙な気恥ずかしさを感じる。
暗闇でわからないだろうが、きっと今、私はトマトも真っ青なほどに赤い顔をしていることだろう。
「まぁ、気にするな。存在感がないことくらい、自覚している。それに、普段は眼鏡をかけているしな。別人のように思えても仕方ない」
「うん、ありがと。……それにしても、驚いたなぁ。本当に知らない人みたいだよ。そんなに知ってる仲でもないけど、なんだか新鮮な感じ」
「そうか。……そういうことなら、俺もそうだな。教室でも飛び抜けて明るいのに、今日に限ってどうした? 雪に喜び勇んで駆け回りそうなイメージだったんだが」
「あ、それ酷(ひど)いよ〜。いくら私でも偶(たま)には凹(へこ)むもの」
「悪い、冗談だ。だが、否定はしないんだな」
「うっ……、だって本当のことだもの。私が脳天気で楽天的だってことは、何より私が知ってるわ」
小気味よい会話。沈んでいた気持ちが、少しだけ浮き上がるのを感じる。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに心は渇き、枯れた思いの代わりにため息が一つ。
しまったと後悔するも、時既に遅し。
冷たい空気が、壁のように、私を蝕む毒のように、緩慢に、それでいて確実に迫ったような気がした。
静寂が耳に痛い。
立ち上がり、去ってしまおうか考えたそのとき、
「……なぁ」
彼が言葉を発した。
「これは提案なんだが、悩みがあるなら聞くぞ?」
「でも――」
「俺とお前は初対面。そうだろう? でも、だからこそ話せることだってあるかもしれない」
私の言葉に重ねられた言葉の意味をとるのに、わずかばかりの時間が必要だった。
やがて気付き、息をのむ。
「……いいの?」
「何の話かはわからないが、悪いことなら止めてやる」
「それはつまり、止められるまでは良いってことだよね」
「……そうだな」
素っ気ない返事。
だけど私はそれに安堵した。
それからどれほどの時間がたっただろう。いつの間にか、私はぽつぽつと語っていた。色んなことを、一つのことを。
彼はただそれを聞くだけ。返事も頷く程度しかしてくれない。
それでも、私はいくらか救われたのだろう。
全てを話し終える頃には、あんなに冷たかった毒が、少しだけ平気になった気がした。冷たさに慣れただけかもしれない。あまりの冷たさに感覚が麻痺しているだけかもしれない。
だから。
――だから、なんだと言うのだろうか。
「……これで、全部か」
独白のような確認。先ほどまで私が独白していたせいか、立場が逆転したようで不思議だ。
枯れるほどに零(こぼ)した涙でぐしゃぐしゃになった顔を、できる限りに爽やかに笑い、
「うん、そう」
「……そうか」
「……うん」
既に日はまたぎ、イブの二文字はとれてクリスマスだ。時間も夜更けとは言えず、早朝に近くすらある。
時計はまさしくタイムリミットを示し、魔法は解けてしまう。
「少しでも力になれたなら良かった」
嫌だ。
解けないで。
「じゃあ、俺は」
いっちゃ嫌っ!
そう強く思ったと同時、――彼の言葉が、そこで止まった。
なぜだろうか。
首をかしげてみると、頬を伝って落ちるものがあることに気がついた。いつの間に泣いていたのだろうか。
それを拭おうと、左手を使う。
知らぬ間に右手は使っていたのだから、しかたない。
「……俺が止めるはずだったのに、お前に止められてちゃダメだな」
「うん。悪いよ」
「これから俺は卑怯なことをする。悪いと思ったら止めてくれ」
「うん。止める。止めるから、止めるまでは止まらないで」
「あぁ、わかった。言うぞ」
「うん。言って」
私の願いに、彼が応える。
「……お前は気付かなかったかもしれないが、俺は……」
一息。
「俺は、お前の――」
溶けた雪が溢れるのを、私は止めない。
きっと、彼が、止めてくれるのだから――。