『総斎志異 第六話』
この世には人知で説明の出来ない不思議なことが時として起こるものですが、
此の話も、その類のもので御座いましょうか。
時は慶応四年、江戸の街が火の海にならずに済んだと申しましても、上野じゃ
未だに彰義隊が抵抗しております。
そのような世情ですから、芝居見物どころの騒ぎじゃ御座いません。
客足がばったり途絶え、浅草猿若町の芝居小屋は三軒が三軒共に閑古鳥
が啼く始末で御座います。
或る夜、思案橋付近で大勢の者が集まって大騒ぎをして居りますので、
何だと聞けば、たった今若い役者風の男が橋の欄干によじ登り、川を目掛けて
飛び込んだと申します。
じゃ、助けねばなるまいと言うに誰もその気がない様で御座います。
進んで川の中へ飛び込む者など居ないと言う訳です。
日頃は役者見たさに銭まで払うと言うのに、世間と言うのは冷たいもので御座います。
何を苦にしての自殺かは解りませんが、其れなりの事情があっての事で御座いましょう。
ところが、暫くして、妙な噂が立ち始めました。
芝居小屋に幽霊が出る、と。
それも、以前身投げした若い役者にそっくりだった、と。
現れる時刻も決まって、身投げした暮れ六つの鐘と同時だとか。
そうなりますと、どの小屋だ、どの小屋だと、大騒ぎになりました。
怖いもの見たさが人情で、いずれの小屋も押すな押すなの大盛況で御座います。
そうなりますと、暮れ六つの鐘と共に、どの小屋も待ってましたとばかり、一斉に
幽霊を演じる次第となったので御座います。
毎夜の大入り満員の客席を眺めては、座元達は彼等の妙案を喜んだので御座います。
只、おかしな事に必ずどれかの小屋だけが、幽霊が二体になるので客も小屋関係者も
首を傾(かし)げたそうで御座います。
完
作品名:『総斎志異 第六話』 作家名:南 総太郎