Twinkle Tremble Tinseltown 4
引き締まった腹筋へ服越しに触れていたら、ふと指先に布ではない柔らかさが引っかかる。ごわつくそれをつつくと、スリムはソファの背凭れに引っ掛けていた肘でフロリーの頭を軽く小突いた。
「いてえよ」
「何これ」
顔に掛かったブルネットを掻きあげ、フロリーはもう一度違和感のあった場所を撫でた。
「ねえ」
「大したことない」
頭頂部へもう一発お見舞いされる前に、手はパーカーの裾を捲り上げていた。オリーブ色の肌に不釣合いな真っ白いガーゼ。中心辺りにぽつりと針の先ほどの血が滲んでいる。脇腹に走った縫合痕を含め、彼の身体に走る無数の傷は見慣れていたし、未だ増え続けていることも知っている。だがここまであからさまに血の匂いをさせているものは初めてで、思わずフロリーは息を詰めた。
「これ」
「トチっただけだって」
特に興味を持つこともなく、何事もなかったかのような顔でテレビに戻る。
「おまえには関係ねえよ」
そのまま彼女が黙り込んでしまったから、これで話は終わったと思ったのだろう。だからもう一度にじるよう押し付けられた爪が、ざらざらしたガーゼ越しに縫目のおうとつを辿ったとき、予期せぬ痛みに呻いたのだ。喉が震えた拍子に吹き上がったアルコールは、鼻腔にまで迫ったらしかった。
「ぶっ殺すぞ!」
むせ返る動きに合わせて痙攣する腹筋の上に指先を這わせたまま、フロリーは煮えくり返る怒りに身を硬直させていた。
「ひどい」
レイプ魔のような視線に晒されても、ミルクチョコレートの色をした瞳は一切怯まなかった。
「あいつのところに行ったんでしょ」
「何だよ?」
まだ篭った咳を続けながらも、とりあえず汚れた口元だけは乱暴に手の甲で拭う。
「ったく」
「この怪我。治療してもらいにあいつのところに」
早口でそれだけ吐き出した唇は、整った前歯に噛み締められて徐々に赤黒く変わる。とりあえず腹から相手の掌を払い落とすことに成功したスリムは、しかめた眉の下から放つ眼光を少しだけ緩めた。
「ああ」
怒りの温度は変わらないが、紛れ込んだ不純物のお陰で勢いは少しだけ下火になったらしい。その機に乗じて、フロリーはまた声を張り上げた。自分でも、煮えたぎる衝動の原因がさっぱり分からない。論理的思考を放棄した脳の末端で爆ぜた火花が、視神経を伝って眼球全体に広がる。
「仲悪いんでしょ、どうしてそんな」
「そりゃあ、あいつは医者だからな」
見下ろす瞳に膜が張ったのを見た瞬間、スリムの声はあっという間にその熱量を失った。
「いくら罰当たりでも」
「普通に」
鼻の奥がかっと燃え上がり、ついで湿り気を帯び始める。幸い鼻水が垂れるよりも早く涙が溢れ出し、顔中をとめどなく濡らし始めたが。
「普通に! 市民病院へ行けばいいのに!」
「一番近かったんだよ。それに」
汗すら引いた缶の底がローテーブルにぶつかる。こん、と硬い音は、二人の間に築き上げたトーチカに響いて、テレビの中の歓声から独立した。
「普通の医者に見せたら面倒だ」
白けきった口調が火照った耳朶に触れた途端、フロリーの唇は戦慄きを忘れた、
「ばか! このばか、ばか!」
飛び出す悪態の中で、自らが認識できたのはこれくらいだった。自分でも何を言っているか理解できないでいる。喉声と息遣いと呻きと金切り声と鼻を啜る音がごちゃ混ぜになり、目の前が真っ赤に染まった。霞む視界の中冷静と苛立ちの間でじっと身を潜める横顔だけをしっかり見ようと努力はしてみる。だが眉間に寄った皺以外は、まるで普段と変わらないのだ。それが許せない、どうしても。今まで沸騰しているだけだった激情が吹き零れ、身体の隅々にまで行き渡る。だから固まってしまったかのような指を尻の下に突っ込み、潰れていたクッションを掴んだ瞬間を、彼女ははっきり認識できていない。体重を掛けすぎて硬くなった綿をジャーヘッドに叩き付けた瞬間ばかりが、やたらとスロー掛かっていたのだけを覚えている。
「何話したのよ、話した? どうせ」
一発殴れば後はもう手当たり次第で、無茶苦茶に振り回す腕が風を切り、その間にあーあー、という間延びした感嘆詞が挟み込まれる。勿論発信源は彼女ではない。いてえだのファックだの喚きながらもとりあえず数回は殴られてやってから、スリムは慣れた動作で暴れまわる手首を掴んだ。ひゅうっと息を呑んだフロリーが目を閉じるよりも早く、分厚い掌がきつく頬を張る。腕を捻り上げながらもう一発。
「人様のやることに一々口出しするたあ大した身分になったもんだな、ええ?」
更にもう一発張り飛ばしてから次が来るまでの間に、フロリーはほんのちょっぴりだが瞼を開いた。ぼやける視界の中で、にやにやと笑みを乗せたスリムの唇だけが、くっきりと浮かび上がって見えた気がした。
「俺は俺のやりたいようにするんだ。分かったか?」
乾いた音が二発も続けばもう目を閉じるしかない。泣き声を上げたらそれを叱るようにまた折檻。
「ほら、分かったか!」
「分かったわよ分かった!」
喚き散らせば腫れ上がった左の頬が突っ張った。突放されるままソファに身を投げ出し、フロリーは残っていたクッションに歯を立てた。母親から送ってもらったパッチワークのカバーにじわじわ唾液と唸りが染み入る。掴まれていた手首に滲んだ汗は自らのものか、それとも男の手汗か。どちらにしろ腹立たしいのには変わりないので、目元を擦って無理やり涙と同化させた。
発作的な啜り泣きは鼓膜の中で跳ね回っているものの、溜息の一つ程度なら聞き取る余裕があった。余韻も何もなくスプリングが軋み、熱が遠ざかっていくのを剥き出しの太腿で知った。
「喚け喚け、ずうっと泣いてろ、くそったれ」
ワークブーツの厳つい足音が遠ざかっていく。
「次来た時もそれ位しおらしくしてたら、せいぜい可愛がってやるよ」
ドアが乱暴に閉まっても、フロリーは身を丸めるようにしてクッションを噛み続けていた。悔しい。悲しい。妬ましい。原始的な感情は一度火がつけば燃え上がるのは早いが、消えるのも早い。どちらかのチームが点数を入れたらしく、テレビの中で観客が熱狂し、コメンテーターの口調も早まる。せめて消していって欲しかったと考えることのみが恨みで、後はもう、燃え尽きるのを待つだけ。涙が止まるのを待つだけ。
一頻り泣いた後、フロリーは鼻水と涙にまみれたクッションからのろのろと顔を上げた。電話。足の裏が床に張り付きながら離れる。鼻を啜りながらも何とか寝室にたどり着き、受話器を取り上げることができた。覚えた番号を感覚の鈍い指で押し、コール音がなっている間にベッドの上へ身を投げ出す。今日はもう、このまま寝てしまいたい。頭はそう思っているのに、一旦その気になった身体は温もりを欲しがった。
低くぼそぼそした声が、熱を持った耳たぶを優しく打つ。それだけでもう、心が静まる。気持ちがリセットされ、尖っていた角が丸くなる。ハーイ、と投げかけた時にはもう、その小さな唇に笑みを浮かべていた。
「ねえ、今暇してんの? もしそうなら、うん」
普段から少し甲高いのだ。これくらいで丁度いい。そう納得しながら、電話の向こうにいるキルケアへ掠れた声で囁きかけた。
「一緒にシリアルでも食べない?」
作品名:Twinkle Tremble Tinseltown 4 作家名:セールス・マン