『総斎志異 第五話』
この世には時として人知で説明出来ない不思議な事が起こるものですが、
これなども、その類のもので御座いましょう。
時は、慶応四年春、折しも西郷・勝の会談により江戸城の無血開城
が実現し、江戸が火の海にならずに済み、一時は命が危険に晒された
百万の江戸庶民もほっと胸を撫で下ろしたので御座います。
江戸高輪泉岳寺近くで油屋を生業(なりわい)とする与平と言う男が居りました。
先年江戸で広がった流行病(はやりやまい)で愛妻を亡くし、男手一つで一人娘の
「お雪」を育てて参りました。
この「お雪」が、大変な器量よしで、まだ十二になったばかりだと言うのに早くも大人
顔負けの色気すら漂わせる有様で、末は大店の跡取り息子の嫁にでもなろうかと
噂されて居りました。
ところが、浅草の浅草寺でお参りを済ませ、仲見世通りを、与平と歩いて居た時、
前から走って来た若い男に突き飛ばされ、転んだ拍子に後頭部を強く打って
昏倒して仕舞います。
直ぐに、医者に担ぎ込まれたのですが、余程打ち所が悪かったと見え、その侭
息を引き取って仕舞ったので御座います。
与平の悲しみ様は一通りでなく、それ以来と言うもの店の表戸も閉ざしっぱなしと
相成りました。
無理も御座いません。
妻を亡くし、今又、愛娘(まなむすめ)まで鬼籍に入ったのでは、
商売をするにも、張り合いと言うものが御座いませんでしょう。
勢い、酒に溺れる日が増えるので御座いました。
寂しい寡(やもめ)暮らしの上、蓄(たくわえ)も次第に底を突いて来ますと
生きるのさえ厭になって参ります。
暮れも押し詰まった或る夜、用足しに起きた与平が手水場(ちょうずば)で手を
洗いながら、ふと中庭に目を遣ると、うっすら積もった雪の上に、何やら黒っぽい
物が見えます。
(何だろう?)
気になって、庭へ下りて近付いて見ますと、
一羽の鴉が蹲(うずくま)っているのでした。
(おお、鴉か。そう言えば、ここ数日、庭木に鴉が飛んで来ては、まるで家の様子
でも探る様にしていたな。今夜は、巣に戻り損ねたのか」
と、抱き上げると羽をバタつかせはしますが、飛び立つ様子は御座いません。
(何処か怪我でもしているのかな)
と、家の中へ入りました。
明かりを点けて調べても、特に怪我はなく、何故かとは思いつつも、鴉を座敷
に残して、寝たので御座います。
翌朝、
「おとっつぁん、ご飯出来ましたよ」
若い女の声に、与平は目を醒ましました。
何やら、良い匂いがして参ります。
(久しく嗅いでいない味噌汁の匂い)
男寡(おとこやもめ)の暮らしなど、何とも味気の無いもので御座います。
久し振りに食事らしい食事を前にして、この別嬪さんは一体誰なのかと訝しむ
与平は、聞いて見ました。
「どなたさんで、御座いましょう?」
「いやだ、おとっつぁんと呼んだでしょ。娘の「雪」ですよ」
「うちの「お雪」は、まだ十二だけど」
「いつまでも、十二では御座いませんってば。もう、今年で十五よ」
「十五? 」
まるで狐にでも化かされた気分で飯を口に運びます。
そっと、頬をお抓ってみたが、
「痛て!」
夢ではなさそう。
「おいしい? 私がつくったご飯」
「旨いよ」
突然訪れた幸せに、与平は戸惑うばかりでした。
気付けば、今日は「お雪」の誕生日。
(誕生日には必ず欲しい物を買ってあげたな)
その日一日、お雪は与平の汚れ物を洗濯したり、繕ったりして過ごしました。
与平は、明日からの楽しみを思い浮かべながら床に就いたので御座います。
お雪は、やる事があるからと言ってまだ起きて居りました。
翌朝、与平は早く起き、表戸を全開にして暖簾を下げました。
商売する気力が出て来たので御座います。
ところが、気が付けば、朝餉の匂いも、お雪の姿も御座いません。
見れば、帳場の机に上に一枚の紙が置いてあります。
取り上げると、お雪の手紙でした。
「おとっつぁん、お店閉めっぱなしはだめよ。元気出して。
あたしもおっかさんも、何時も直ぐ傍に一緒に居るんだから。
いつまでも泣いていないで、元のおとっつぁんに戻ってね。
約束よ」
完
作品名:『総斎志異 第五話』 作家名:南 総太郎