同じ階段を昇る
わがままな息子ヒロシを持った母親のキョウコは優秀な旅館の経営者であったが、母親としては失格であった。何もかも与え過ぎた。それが愛情表現と信じていたのである。そのせいで、わがままで節操のない、ぐうたらな大人になってしまったのである。
ヒロシは高校を卒業すると、入学金がべらぼうに高い私立の大学に入った。そこは中学生程度の算数も解けない学生たちが集まるところである。そういった連中の中でも、ヒロシは特に頭が悪かった。どうにか卒業できたのは、キョウコが多額の寄付をしたおかげである。勉強しなかったばかりか、女癖も悪かった。盛りのついたオス犬のように、女とみれば手当たりしたい、金の力でものにした。やくざとつながりのある女に引っかかったときは、さすがのキョウコも怒ったが、めそめそと泣き出す息子を見ると、すぐに怒りの矛を収めてしまった。大学を卒業しても、なかなか家業を継ごうとせず。ぶらぶらと遊んで暮らしていた。
キョウコは、二十九になっても職を見つけないヒロシを無理やり東京から連れ戻した。家に戻しても、旅館の手伝いは何一つしなかった。
そんなある日、近所に住む娘カオリが母親の使いでキョウコのところに訪れた。偶然、出くわしたヒロシはその美しさに一目ぼれしてしまった。
カオリの父は詐欺師にひっかかり多額の借金を背負い夜逃げ同然に消えてしまった。カオリの母親は来る日来る日も借金取りに追われ心労のあまり倒れた。財産を処分しても、なおも五百万近い借金が残っていた。
ヒロシが、「カオリと結婚できるなら、旅館を継いでもいい」と言いだ出した。
キョウコはとまどった。カオリの母親のマサヨとは、幼なじみだった。カオリのこともよく知っていた。そのカオリには好きな男がいることも。だが、旅館を維持させるためには、息子に何としてでも家業を継いでもらわないといけない。キョウコは無理を承知で息子との結婚を頼んだ。が、マサヨはなかなか首を縦に振らない。キョウコは焦った。跡取りがいなければ、後家として入り、血の繋がりないヒロシを育てながら、血のにじむような努力をして旅館を立て直したことが報われないからだ。
キョウコはとうとう覚悟した。嫌っていた義母と同じことをしようと考えたのである。即ち、女を金の力でと息子を結婚させることである。
振り返れば、キョウコもカオリと同じような境遇であった。キョウコの父は遊び人で多額の借金を作り、それが原因で母親は病に伏した。にっちもさっちもいかない状況で手を差し伸べてくれたのが、将来の夫アキオとなった義母のチエである。チエは息子のアキオがどうしてもキョウコと結婚したいというので、息子の嫁になるように頼んだのだ。当時、キョウコには心を寄せていた男がいたが、残念ながら経済力がなかった。借金を肩代わりするという条件で結婚を決意した。それから二十年が過ぎ、義母も、夫もいない。
過去を振り返ったキョウコは情けなく泣きたかった。しかし、そんな顔は誰にも見せたことがない。客の前では笑みを絶やさず、従業員の前では凛とした姿勢でいた。
キョウコは諭すようにカオリに「母親を助けてやるのも、親孝行よ」と言った。その一言がカオリの心を揺さぶった。
「それに、あんたは東京にいる恋人を待っているのかもしれないけど、東京なんか、腐るほど女がいるのよ。今頃、他の女といい関係になっているかもしれないよ。そんな男を待つより、あなたのことを思っているヒロシの嫁になった方がずっと幸せよ」
カオリは恋人に電話をした。
恋人は「今は忙しんだよ。何か用があるのか?」といかにも嫌そうに出た。
近くに女がいた。それも若い女が。ずいぶんと甘えたような声で囁いている。
「誰が、そばにいるの?」とカオリが聞くと、
「関係ないだろ」と彼は怒鳴った。
カオリは耐えられなくなって電話を切った。そばにいたのは、商売女だった。それもキョウコがカオリと恋人を離れされるために雇った女だった。恋人は、その女の色香に迷ってしまったのである。
数日後、カオリはキョウコに会い、結婚を承諾した。
「本当に良いのかい?」と再度確認した。心のどこかで断ってくれたなら、どんなに良かっただろうとも思っていた。しかし、カオリはうなずいた。
カオリとヒロシの結婚生活は最初からうまくいかなかった。夜の生活では、カオリはまるで人形のように心を開いてくれなかったのである。数ヶ月、ヒロシはキョウコに「あれは人形みたいで駄目だ」と言った。
キョウコは、カオリがヒロシだけでなく自分にも心を開いてくれないことを気づいていたが、若女将としての役割はちゃんとこなしていた。それは、自分が昇ってきた階段をカオリも昇ってきているのだと悟った。
ヒロシが突然、死んだ。結婚して四か月後のことである。喪があけると、カオリはキョウコに子供ができたことを告白した。キョウコはそれが誰の子なのか聞かなかった。
「その子が旅館を継いでくれるといいわね」と一言呟いた。