「総斎志異 第二話」
此の世には時として人知では説明の付かぬ事が起きるもので御座いますが、
此の度の話も誠に不思議千万と申しましょうか、信じ難いもので御座います。
先ずは、ともあれ爺めの話をお聞き下され。
時は、慶応四年夏、処は江戸府本所深川の、とある裏長屋、人呼んで
どぶ板長屋。九尺二間の棟割長屋と言えば、一畳半の土間、四畳半の
部屋、従って厠など作る場所が御座いません。じゃどうするかと言えば、
今で言ういわゆる共同便所と相成りまする。それも、用を足している間も、
扉は下半分だけで、外から頭が見える代物で御座います。
「熊、早くしてくんねえな。おらあ、出掛けにゃなんねえんだよ」
「せかさなくとも、となりのを使えばいいじゃねえか」
「二つとも、みんなふさがってんだよ。早くしておくれよ。おめえはいつもな
げいんだから」
毎朝見慣れた風景で御座います。
その厠で、先刻から唸り声が聞こえます。
既に夜も大分更けて居ると言うのに、一体誰が入って居るのやら。
昼間食った目刺が古過ぎたのか、それとも焼酎の飲み過ぎか、晩飯を食った
後、腹の具合がよくねえ、と熊五郎は先刻から何度か足を運んで居ります。
常備薬の正露丸を飲んではみたものの、相変わらず痛みが続きます。
そろそろしゃがみ疲れた頃、頭を撫ぜる者が居ります。
「こら、邪魔すんじゃねえ」
八五郎の悪戯と思ったので御座います。
ところが、撫ぜる手は一向に止めません。
それどころか、今度は頭を上から押さえ付けたのです。
「八、いい加減にしろよ。痛えじゃねえか」
熊五郎、用足しを止めて厠の外へ出ると、
「おい、どこに居るんだ?」
八五郎が、何か用事でも有って捜しに来たものと思ったので御座います。
星明りに辺りを見回しましたが、どこにも姿がありません。
「足の速え野郎だな」
と言いながら、八五郎の家の障子戸に手を掛けると、簡単に開きます。
(やっぱり、八だな)
「おい、何か用事でも有ったんか?」
返事がありません。
「狸寝いりなぞ、しやがって」
そう言うと、部屋に上がり込み、八五郎が掛けている「かいまき」を剥いだ。
「な、何すんでえ」
八五郎が飛び起きた。
褌一丁の姿で、目をしょぼつかせて居ります。
「何だ、ほんとに寝てたんか?」
「そうだよ。一体どうしたんだ? 夜中なんかに叩き起こして」
「いやね、厠で用足してたら、頭を押さえ付ける奴がいたんで、てっきり
おめえが、何か用があって呼びに来たんじゃねえかと思って」
「うんにゃ、俺は寝てたよ、ずーっと」
「そうかい、そりゃ悪かったな。起こしちまって」
「いや、構わねえが。誰だろ、そんな事する奴は」
「ううん、分かんねなあ。それにしても、八、心張り棒掛けねえのは無用心だぜ」
「ああ、わかった」
その明くる朝、
「お早う御座います」
朝飯をすませ、使った椀に湯を注ぎ、それを飲み込むと椀を函膳に仕舞って
いつもどおり蝿帳の脇に片付けていた熊五郎は、外の挨拶が自宅と知って、
戸口の障子戸の心張り棒を外し、開けました。
そこには、見も知らぬ男の子が突っ立って居ります。
「何だい、何処の小僧だ?」
「おじさん、ゆんべは悪かったね」
「何、お前か。俺の頭を押さえ付けた奴は」
「急いでいたんで仕方なかったんだよ」
「何だ、おめえも腹壊したんか?」
「違うよ、あの世へ急いで帰りたかったんだ。あの厠だけが通り道なんだよ」
「あの世、通り道? 何だ。そりゃ?」
「おいらは、あの世での頼まれ物をこの世から運ぶ仕事をしてんだ。
此の前は、閻魔さんに鏡磨ぎの粉を持って行ってあげたよ」
「閻魔さんか。じゃ、俺が死んだ時は、宜しくと言っといて呉れ」
「そりゃ、どうかな。手抜きはご法度だからね。閻魔さんだって雇われの身だからね」
「なんだい、閻魔も見張られてんのか」
「ところで、おじさん、お詫び代わりに良い事教えてあげるよ。閻魔さんの言うには、
近々江戸もお仕舞いだとさ」
「お仕舞いって、如何いう事だい?」
「詳しくは解らないけど、急いで江戸から離れた方が良いよ」
「そうか。閻魔が言うんじゃ、間違いねえだろう。八にも、否、長屋のみんなにも教えなきゃ。
小僧、ありがとよ、閻魔に宜しくな」
それからと言うもの、どぶ板長屋は上を下への大騒ぎ、遂には他の長屋へも噂は流れ
江戸中が引越し騒動となり、お上は大慌てだったとか。
間もなく、江戸府が東京府に呼び名が変わり、慶応も明治に改元されたので御座います。
その後も、誰が呼んだか「厠小僧」なる男の子が、忙しそうに厠を出たり入ったりしてるのを、
時折目にする事が出来たそうで御座います。
完
作品名:「総斎志異 第二話」 作家名:南 総太郎