『総斎志異 第一話』 3
羅卒が目を醒ました時には既に陽は高く、風があると見え障子に映る
庭の木立の葉の影が揺れて居りまする。
軒先で頻りに囀る雀の鳴き声を聞きながら、昨夜の事を思い浮かべ
るので御座います。
寝所に案内され床に就いたところまでは覚えているのですが、その後が
さっぱり思い出せません。
只、夢うつつに女の話し声が聞こえたような気がします。
土台、それ程強い酒飲みでは御座いません。
それにしては、よく飲んだ、否、飲まされたので御座います。
羅卒の大名屋敷での生活が始りました。
日中は暇を持て余し、屋敷内の草取りや庭の掃除でもしようとすると、
都度女の声で、下男の仕事だと言って止められてしまいます。
已む無く、書院に寝転んで黄表紙などを広げて過ごすのですが、如何にも
退屈で御座います。
夜になると、兎に角、酒をたらふく飲まされ殆ど前後不覚となりまする。
確かにこんな豪勢な屋敷に住み、綺麗な新妻と何の不自由なく暮らせれば、
出世も何も必要ない訳で御座います。
或る日、いよいよ退屈に我慢出来ず、自宅の様子を窺いに出掛けたので御座います。
住み慣れた長屋の路地を入りますと、近所の知り合いの女将さんが遣って来ます。
「お早う御座います」
と、挨拶をしましたが、相手はそ知らぬ顔ですれ違いました。
(矢張り、家出などした俺は悪い評判を立てられているようだな。あの女房のことだから、
どんな作り話をしているか、解ったもんじゃない)
と思いながら、我が家をそっと覗いたので御座います。
奥行き二間ばかりの家の何処にも女房の姿がありません。
ではと、家に入り、裏手を見ると、女房が干し物をしております。
よく見ると、あの鬼婆が珍しく目に一杯涙をためての仕事です。
正に、「鬼の目にも涙」で御座います。
(おう、あれだけ悪態付いてた鬼婆でも、矢張り俺の家出で淋しい思いを
していたんだな。可愛いところがあるんだな)
さすが、永年連れ添った連れ合いで御座います。
「よう、帰ったぜ」
と、近づき女房の肩に手を置いたので御座います。
しかし、女房は何の反応もなく、ものを干し続けます。
「おい、俺だよ。もう、泣くなよ。帰って来たんだから」
「・・・」
羅卒は、
(そうか、怒るのも無理はない。何日も家を空けたんだから)
と考え、
「まあ、俺が悪かった。もう、家出などせんから、どうか機嫌を直して
呉れよ」
と、強く肩を抱き寄せた、とは羅卒が思っただけで、女房の体は
全く動きません。
「ん? 」
妙に思った羅卒は、漸く自分の身体に異変が生じている事に気付きました。
部屋に上がり、女房の少ない所帯道具の一つ、欠けた手鏡をそっと覗きます。
映っているのは、部屋の天井板だけで御座いました。
その夜も、新宿の信濃高遠藩内藤家の下屋敷67,000坪(現新宿御苑)
の沼に棲み付く二匹の雌の川獺(かわうそ)が、巣穴に引きずり込んだ、殆ど骨ばかり
と化した羅卒の身体(からだ)にしゃぶり付くので御座いました。
完
作品名:『総斎志異 第一話』 3 作家名:南 総太郎