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ガリレオ(それでも地球は動く)

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『ガリレオ(それでも地球は動く)』

 ガリレオ・ガリレイ。その名を知らぬ者はいないだろう。地動説を唱え、『天文対話』という本を著し、そのせいでカトリック教会の異端審問にかけられた。身の危険を感じて、自分の考えを改め、すなわち地動説が誤っていて天動説が正しいと宣誓した。審問が終わった後、彼は「それでも地球は動く」と呟いたと言われているが、現実的にはありえない話であろう。なぜなら、「それでも地球が動く」と呟いたならせっかくの宣誓を台無しになり、最悪の場合、魔女裁判で有罪になった者のように火あぶりの刑に処せられることもありえたからである。『それでも地球は動く』は誰から付け加えたものだろう。エピソードはときにそれに相応しいように作られていく。
 物理学や天文学の分野で多くの発見や発明をしたガリレオは「近代科学の父」といわれている。温度計、望遠鏡などの多くの機器も開発した。

 ガリレオは反キリスト教徒でもなければ、教会の教えや権威を否定しようとも思っていなかった。むしろ熱心なキリスト教徒といえる。ただ優れた知性が彼を真理の追究に駆り立てたのである。それはガリレオよりも七十年近く前に地動説を唱えたコペルニクスも同様であった。コペルニクスも熱心なキリスト教徒であったため、死の直前まで,地動説を発表しなかった。

 十四世紀から十六世紀、フィレンツェ、フェッラーラ、ミラノ、ベネツィアなどのイタリア都市でイタリア・ルネッサンス(再生)が花開いた。同時にヨーロッパにおける王権の拡大に伴って教会が分裂し、キリスト教会の権威をも失墜した。

 ガリレオの足跡をたどってみよう。彼は一五六四年イタリア北部のピザで音楽教師の長男として生まれました。同じ年にイギリスでは、ウィリアム・シェークスピアが生まれている。ガリレオの父は音楽教師、母は商人の娘である。父から音楽を学んだ。
 少年時代はフィレンツェで過ごした。当時のフィレンツェはメディチ家が支配し華やいでいた。
 ヴァロンブローサの修道院学校(当時の南ヨーロッパではカトリック教会がこどもたちの教育を担っていた)に入学した。ガリレオは、祈りや儀式を楽しんで学び、修道士になりたいとさえ思った。しかし、現実主義者であった父親は、修道士になることを反対し医者になることを勧めた。「修道士になどと戯言を」と言って少年を睨み付けた。父親の権威は絶対であった。「息子は目が悪いので治療させないといけない」と嘘をついてまで息子を修道院からフィレンツェの学校に転校させた。

 ガリレオは父の勧めで医者になろうとした。生まれた地ピサの大学に入ったが、そこで医学よりも数学に興味を覚えた。彼は医学の学位をとらないまま大学を去った。

 フィレンツェに戻ったガリレオは数学の勉強を励む一方で、収入を得るために、地元の大学で数学を教えた。そしてピサ大学で数学教授となった。

 ピサの斜塔から重さの違う金属の玉を落とし、その着地時間が同じであるというのを発見したと後年伝えられているが、実際は斜面の転がしてみただけというのが事実のようである。当時は古代ギリシャの哲学者アリストテレスの物体の速度は重さに比例するという説が広く信じられた。その常識をガリレオが覆したのである。彼の鋭い観察力の賜物であるという人がいる。同じように鋭い観察力を持った科学者にニュートンがいる。ニュートンもリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといわれているが、この話も後世にこじつけられたものともいわれている。

 中世にレンズが発明された。これを使いオランダのハンス・リッペルスハイが一六〇八年に望遠鏡を作った。ガリレオはその望遠鏡を改良し、倍率は三倍から二十倍まで高めた。彼はこの望遠鏡を使い夜空を眺めた。
 一六一〇年一月、ガリレオは木星の周りに四つの衛星を発見した。続いて金星に観察した結果、満月や三日月になる月と同じように、金星もまた満ち欠けすることを発見した。これは金星も太陽の周りを回っているのだということを意味していた。ガリレオはこの発見でコペルニクスの説、即ち地動説が正しいと確信した。そして、ニコラウス・コペルニクス(一四七三-一五四三)の地動説と教会の天動説のとの議論が再燃した。

 地球を中心に宇宙がまわっているという天動説は、アリストテレスの考えに基づいている。驚くべきことに千年もの間信じられてきた。コペルニクスは星の動きを観察した結果、天動説が誤りであり、「地球も動いている」という地動説を唱え、『天球の回転について』という本を著した。カトリック教会はそれを発行禁止にした。一六〇〇年、ジョルダーノ・ブルーノというイタリア人が異端審判所でキリスト教の教えに背いたかどで異端という判決を受け、火あぶりの刑となった。ブルーノはコペルニクスの天動説の支持者でもあった。それを知っていたガリレオは教会とは敵対するのを何とか避けようとした。

 ガリレオの欠点は、合理的でさえあれば、誰もがその考えを受け入れるものと信じたことであろう。だが、多くの人は、自分の見たいものしか見ないし、自分が信じる者にしか耳を貸さない。そこにあるのは理性ではなく、感情である。知性によって判断する者はほんの一握りなのである。ガリレオが暮らしたルネッサンス時代も、有人ロケットが宇宙を旅する時代の現代でさえ。

 ガリレオは誰とも親しく慣れる気さくな人柄だった。それゆえ親しき者が多くいた。が、同時に敵も多かった。敵の多くは古い考えに囚われた哲学者だった。彼らは多くはアリストテレスの考えに盲目的に従い、天動説が正しいと信じていた。
 
 ガリレオは一六二三年に教皇ウルバヌス8世となったマッフェオ・バルベリーニとは、教皇になる前から親しかった。バルベリーニはガリレオの研究をたたえていた。
 一六三二年二月、ガリレオが『天文対話』が刊行されると、たちまち評判となった。そしてガリレオの評判を妬む者がいた。
「ガリレオは危険です。教会と教皇様を侮蔑しています。教皇様は愚かもののように見えます」と教皇ウルバヌス八世に耳打ちする者がいた。同時によからぬ噂も教皇の耳に届いていたときである。また教皇は一六一八年に始まった三十年戦争(プロテスタントとカトリックの戦い)に心を痛めており、教皇はカトリック教会と己自身の権威を保つ必要があった。
 教皇に耳打ちする者はわざとらしく、「教会と教皇様を侮蔑しています」と繰り返した。教皇はあからさまに怒りを表した。当時のトスカーナ大使は『教皇はガリレオに対してこれ以上ないと思われるほどの怒りを示した』と手紙に記している。

 一六三二年九月には『天文対話』は発禁となり、ローマで異端審問にかけられることになった。すでに老齢となったガリレオには、ローマへの旅は過酷であると言う者がいたが、教会は曲げなかった。一六三三年一月二〇日、ガリレオはフィレンツェから旅経った。異端審問は四月に始まり、六月二二日まで続いた。そして最後にガリレオは審問官の前でひざまずき、「今後、考えをあらためます」と宣誓した。