舞うが如く 第3章 7~9
舞うが如く 第三章
(7)壬生の要塞
京都・壬生に到着した230名余の浪士組は、
郷土や豪農、寺院などにそれぞれに分かれて宿をとりました。
建白書を上程し、朝廷からの攘夷の勅命を取り付けた清河八郎が、
芹沢や近藤たちを残して、10日余りの滞在の後、
200名ほどになった浪士隊を率いて、再び江戸へと戻りました。
残った浪士たち24名は、会津藩預かりとなり
壬生に拠点を構え、『壬生浪士』としてその活動を開始します。
文久3(1863)年から約2年間は、
壬生にある前川荘司邸が、新選組の屯所となりました。
前川邸の屋敷の総坪数は443坪。
家は平屋建てで、建坪が273坪もあり。
部屋は全部で12間におよび、146畳というたいへん広い家でした。
当時の前川本家(京都油小路六角)は、
掛屋として、御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、
色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との
密接なつながりをもっていたのです。
上洛する浪士組(後の新選組)の宿舎を選定するにあたり、
市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、
前川本家が、その仕事を任されました。
前川本家では、壬生の地が京の町はずれにありながら、
二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから自分の身内である
前川荘司の屋敷を提供したのです。
浪士組は、前川邸を中心に八木邸、南部邸、新徳禅寺などに分宿し、
ここ壬生一帯が、新選組の出発点になりました。
(7)壬生の要塞
京都・壬生に到着した230名余の浪士組は、
郷土や豪農、寺院などにそれぞれに分かれて宿をとりました。
建白書を上程し、朝廷からの攘夷の勅命を取り付けた清河八郎が、
芹沢や近藤たちを残して、10日余りの滞在の後、
200名ほどになった浪士隊を率いて、再び江戸へと戻りました。
残った浪士たち24名は、会津藩預かりとなり
壬生に拠点を構え、『壬生浪士』としてその活動を開始します。
文久3(1863)年から約2年間は、
壬生にある前川荘司邸が、新選組の屯所となりました。
前川邸の屋敷の総坪数は443坪。
家は平屋建てで、建坪が273坪もあり。
部屋は全部で12間におよび、146畳というたいへん広い家でした。
当時の前川本家(京都油小路六角)は、
掛屋として、御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、
色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との
密接なつながりをもっていたのです。
上洛する浪士組(後の新選組)の宿舎を選定するにあたり、
市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、
前川本家が、その仕事を任されました。
前川本家では、壬生の地が京の町はずれにありながら、
二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから自分の身内である
前川荘司の屋敷を提供したのです。
浪士組は、前川邸を中心に八木邸、南部邸、新徳禅寺などに分宿し、
ここ壬生一帯が、新選組の出発点になりました。
作品名:舞うが如く 第3章 7~9 作家名:落合順平