桜 - ③
「知るか。今回の事はお前が全面的に悪い。」
空が真っ赤に焼けている中、二人は二度目の帰途についた。当然といえば当然だが全く会話は弾まない。時折聞こえるカラスの鳴き声が妙に間抜けな印象を強める。
「なんだってそんなにしてまで読書部なんか立ち上げようとしたんだ、俺まで巻き込みやがって……」
「それは……」
いつも饒舌な一樹が言い淀む。またしても妙な沈黙が生まれ、なんとなく佑都はいたたまれない気分になった。
「あー、わかったよ。言いたくねえなら言わなくていい。けどさ、せめて一言断ってくれよ、俺の名前で設立届け出す前に。」
「でも言ったら、御津原くんは絶対入らない!って言うでしょ?」
「多分な。でも、いつもの調子でお前が俺を説得したら、いつもみたいに俺の方が折れたかもしれねえだろ。」
「あ、そっか。」
目から鱗という言葉を見事に表現した顔で一樹が佑都の方を振り返る。どうやら本気で、説得するという選択肢に気づいていなかったらしい。
ぴたりと足を止め、一樹は自分より十センチ以上高い所にある佑都の瞳をじっと見つめた。その真直ぐな視線にほんの少しだけ佑都がひるむ。それを契機とばかりに、一樹は握手を求めるように自分の右手を佑都の方に差し出して――一昔前のドラマで見た『僕とお付き合いして下さい』のポーズで――限りなく真摯な声でこう言った。
「改めて、御津原くん。僕と一緒に、読書部を創設してください!」
「いや、一回撤回しちまってるから今年度中は無理だろ。」
あっさりと振られてしまった。まさに玉砕である。
「え、うそ!」
「規約ぐらい読んでから設立届け出せよ」
「……あ、そういえばそんな規約あったっけ」
二人の通う高校の、部活に関わる規約はたった三つ。
一つは、部員が二名以上在籍すること。校長曰く、「一人でやるなら家でやれ」
一つは、廃部または設立を撤回した場合、同じ名称・活動内容の部活は年度内に創設できないこと。校長曰く、「手続きとか面倒臭い」……校長の言葉とは思えないほどぞんざいというか投げやりというか。
一つは、仲良く活動すること。校長曰く、「愛と平和は人生を豊かにする。隣人と敵を愛しなさい」怪しい新興宗教の教祖の様な言葉である。
これさえ満たしていれば、どんな珍妙な部活でも設立が許可された。実際、未確認飛行物体・生命体研究会やらフィギュア同好会、果ては味覇研究会といった何をしているのか定かでない部活でさえ存在しているのだ。
生徒手帳に記されている規約を改めて読んで、一樹はがっくりと肩を落とした。
「部員は二人いるし、読書部は高校創設以来存在していないし、僕ら二人は仲良しだし……ちゃんと三つ揃ってたのになあ」
「俺は部員になったつもりなんかないし、お前と仲良くなったつもりもない。」
「毎日行き帰りが一緒なのはもう友達だと思うけどな。」
「お前が勝手についてくるだけだろうが。で、今日どうするんだ。」
一樹は不思議な顔で佑都を見た。佑都は佑都で自分が発した言葉に自分自身で驚いていた。慌てて撤回しようとするが時すでに遅く、一樹の瞳はみるみるうちに輝きはじめ、佑都の顔は夕焼けの色ではない朱に染まった。
「……そうやって聞いちゃうあたり、御津原くん実は嫌がってないでしょ、僕と一緒にいるの。」
「ち、ちが……これはそういうあれじゃなくて来るなら面倒くさいなっていう感情の発露というか」
「そういうあれ、って何さ。嬉しいなー、ここまで本を読む友達って、今までいなかったんだよね。ってことで今日もお邪魔します!」
「話聞け!やっぱ来るな。お前、今後出入り禁止な。」
結局その日も当たり前のように、一樹は佑都の家に来た。佑都はいつも以上に一樹を邪険に扱ったが、一樹がそんなことを気にするはずもない。
一樹がここまで佑都の家に入り浸るようになったのはそれなりの経緯がある。
突然だが、佑都の父は私立中学校で国語の教師をしている。佑都とは真反対の真面目で堅物を絵にかいたような人で、唯一の趣味と言えるのが読書と本の蒐集であった。そのため、佑都の家の中の一部屋は完全に書庫となっており、様々な分野の本が所狭しと本棚に詰められている。佑都が読書を趣味とするのは父親の影響が大きい。
当然、一樹にとってこの書庫は宝の山だ。次から次へと読みあさっていく。稀少本や絶版ものもあるため、破損や紛失が起こらないか、最初は佑都もかなり神経を使っていたが、一樹の本の扱い方を見てからはそれが杞憂であったことを知る。一樹は一冊一冊の本を、まるで首の据わっていない赤ん坊を抱き上げるように丁寧に――時に恐る恐るといった表現が当てはまるように――扱ったのだ。
あまりに慎重に扱うので、何度目かの訪問のときに、「そんな馬鹿丁寧に扱わなくたって、ちょっとやそっとじゃ傷はつかないだろう」と佑都は一樹に言ったのだが、「僕の知らないことがこの中に詰まっているかと思うとドキドキして、自然とこうなってしまう」と言って、それ以降も一樹の振る舞いは変わらなかった。ぞんざいに扱われるよりはいいか、と佑都もそれ以降は何も言わなかった。
加えて、こんなこともあった。佑都の父が早くに帰宅した日、帰ろうとした一樹と帰って来た佑都の父が玄関先で鉢合わせをした。その時、二人の口からは同時に「先生!」「柘植くん!」という言葉が発せられた。一樹は、佑都の父が教諭をしている中学の卒業生だったのだ。しかも、中学三年生の時分には佑都の父が担任しているクラスの生徒だったというではないか。佑都の父は、何という偶然、いやあ世界は狭い、などと珍しく饒舌になった。
「ほう、柘植くんは本が好きなのか。そういえば図書室の常連だったね。うちにある本でよければ、いつでも来て読みなさい。」
「わあ、ありがとうございます、先生!」
一樹が御津原家へのフリーパスを手に入れた瞬間であった。