認定猶予 -Moratoriums-
着古したとしか言いようのないスーツと、不釣合いなほど真っ白なシャツ。それが彼――シロの私服であり仕事着であり正装だった。革靴も擦り切れてボロボロ、頭もかろうじて櫛を通してあるものの、整髪料や何やらで整えているようには見えない。
首元にネクタイは見えない。助手の少女が此処で世話になってから今までも、ネクタイを締めている姿などは一度も目にしていないだろう。男にとってはそれが正しいのだ。ネクタイにしろマフラーにしろ、首に巻きつけるものは好きではない。人間の中には身が引き締まるだとか気持ちが切り替わるだとか言い訳をつけているが、シロにすればただ息苦しいだけだった。同じ理由で腕時計も外している。お陰で彼のポケットには常に煙草の箱と目薬と腕時計が陣取っている。外出する際には此処にライターが混じる。
アカリの帰った部屋には再びシロと助手の少女と静寂が残った。今やその静けさは風圧で回る換気扇の音さえ打ち消して、けれどその空気感は男には落ち着けるものだった。
煙草の先を潰し直すまでに余り時間は要さなかった。空いた手で新聞を畳み、まだフィルムを開けていない箱を引き出しの奥から引っ張り出してポケットに押し込む。その間も少女は緊迫した面持ちで、もしかしたらさっきのアカリの件で驚いたままなのかもしれないと、気に留めることもしなかった。
けれどそれが見当違いだったと、シロは直ぐに気づくところとなる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
「あ、あの――白城さん」
男の言葉にほとんど食い掛かる勢いで声を上げた。それはシロの動作を一瞬止めるだけの威力を充分に持っていた。もしかしたら、今日初めてその声を聴いたかもしれない。否、灰色の空では昼夜の基準など時に曖昧になるのだが。同時に、その声は既に聴きなれていて、今更鼓膜に届いたとしても不快な思いにはならない。
けれど、意外だったのは確かだった。少女がこうも必死に呼び止めることなどなかったから。いつもより少し大きな声で男の名を呼んで、その割には二の句を探しかねて、勢いで立ち上がったままもじもじと自らの袖の引っ張っては正した。
「いえ……その……い、いってらっしゃい」
やっと絞り出したのがその言葉。明らかに途中で諦めたとしか思えない、ふいにしゅんと下がってしまった両肩。そう、確かにちらちらと様子を窺う視線に気づいてはいたが。
だから、今も座り直すことも出来ないままの小さな体を見遣って。どことなく泣き出す手前の迷子でも見ているような気持ちになって、自分でも驚くくらい優しげな声をかけた。
「ハルも一緒に来るか?」
「あの……でも、いいんですか?」
ぱぁっと桜色に染まって見えた両頬に、くすりと笑い返して。
「いいも何も。お前は俺の助手だろ」
それから勿体付けて、ああ、いや、と煮え切らない態度を演出してみる。
「勿論、ハルが来たければ、だけど」
「行きます。行きたいです、一緒に」
人形みたいな両手を懸命に握り込む。ぐっと意気込んでは少し恥じ入りながら、さっきまで彷徨わせていた瞳でシロを見上げた。
だから男は益々少女を可愛らしく思う。まるで良く懐いた愛玩動物のようだ。拾ったばかりの。それではさしずめ捨て犬だろうかと可笑しくなる。もしかしたら自分は犬派だったかもしれない。けれど、喜怒哀楽を全身で表すそれよりは。
「くれぐれも、はぐれるなよ?」
分かりきった忠告にも、ハルは機嫌を損ねたりしない。あっという間にぱたぱたとシロの傍までやってきて、今か今かと出立を待ち焦がれている。
加えて、はい!と元気よく頷く様子は、少なくとも雑種のようには見えなかった。
作品名:認定猶予 -Moratoriums- 作家名:篠宮あさと