桜 - ①
「桜の木の下には、死体が埋まっている。」
一樹が発した突然の言葉に、佑都は読んでいた小説から顔をあげた。
「梶井基次郎か?」
「僕が今読んでいるのは坂口安吾だけど。」
二人は読書部に所属する高校二年生。
読書部は、文字通り読書をする部活。ひたすら本を読む。部員は彼ら二人だけ。活動日時は気まぐれ、活動場所は図書室か互いの家。学校非公認、私設の部活という括りがあるのなら、それにあたる。
部員その一……というか、部長の柘植一樹(つげかずき)は、いかにも文学青年といった見た目。白い肌に線の細い体型、髪の毛はふわふわとしたの猫っ毛で黒というよりは褐色。細い銀縁の眼鏡の奥にある瞳も、日本人にしては色素が薄めだ。女の子受けしそうな見た目に加え言葉づかいも柔らかく、さらには性格も文句のつけようがない。
一方、部員その二、御津原佑都(みつはらゆうと)はスポーツ青年かヘタをすれば不良といった見た目。よく日焼けした褐色の肌に、短く切られワックスで固められた真っ黒直毛の髪。制服はばっちり着崩し、声も態度も人並み以上に大きい。常に眉間にしわを寄せ、眼光も必要以上に厳しい光を放っていた。……最もこれは視力の悪さに起因するものであるのだが、殆どのクラスメイトは機嫌が悪いのだと誤解する。よって男子連中も必要最低限の会話しかしない。ましてや女子からは目も合わせてもらえない。
そんな、まったくもって正反対の二人が出会ったのは、入学式からひと月ほど経ったある日のこと。桜の木の下で、一樹が佑都を呼びとめたのが始まりだった。
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「御津原くん、これ。下駄箱の上に忘れてたよ。」
「……は?」
一樹の手にあった本は、坂口安吾の『桜の森の満開の下』。佑都の持ち物としてはおよそ似つかわしくない、と級友たちは思うだろう。
「…………お、俺のじゃない。俺は本なんか読まねえもん。」
「嘘だあ。ご丁寧に奥付ページに"御津原"なんて書いて。意外と古風だねえ、本の趣味も、やることも。」
しまった……と佑都は小さく舌打ちした。持ち物には何にでも名前を書いてしまうのは小さいころからの癖なのだ。いい加減直したいのだが三つ子の魂なんとやら。
「安吾好きなの?」
「別に……家にあったから……サンキューな。」
ひったくるようにして本を受け取り、一樹に背を向けてさっさと歩きだす。
見た目に反して読書好きな佑都は級友にからかわれ続け――もちろん、友人たちは本気でからかってなどいなかった。むしろ尊敬に近い念を抱いていたのだが、それを素直に表現する術を知らなかったのだ――いつからか佑都は、隠れて本を読むことを始めた。いちいち驚かれたり、突っ込まれたりするのがひたすら鬱陶しかった。
どうせまた何か言われる。鬱陶しい――その思いから、出来る限り素っ気なく一樹に接した。
接した、はずだったのに……
「僕は好きだよ、安吾。不連続殺人事件、堕落論、白痴、安吾巷談……あと何読んだかなあ」
「……何でついてくるんだよ。」
めげない。それどころか、生まれたてのひよこか何かのようにぴよぴよ言いながら佑都の後ろをついてくる。
「だって、僕の家こっちだもん。ねえ、他に何を読むの?僕も本が好きなんだ」
「だから……俺は本が好きなわけじゃなくてたまたま」
「たまたま読むような本じゃないと思うなあ」
それから一樹はあの作家が好きだこの作品が面白いと殆ど一人で喋りまくった。
一樹は相当な読書家――乱読家といった方が正しいか――であるらしい。ミステリから怪奇幻想、ファンタジーなどの娯楽性の強いものから、純文学や古典、さらに柳田國男に鳥山石燕と民俗学の領域、果てはルソーだウルストンクラフトだと哲学の領域にまで話が及んだ。
彼に言わせれば、書物を○○学と分類することは『非常に無意味で愚行の極み』であるらしい。一つの本を読めばそこから広がるバックグラウンドを知りたくなるのは当然だ、分類毎に壁が出来ると領域間を行き来しづらくなって世界が思うように広がっていかない、と彼は主張する。もっとも、そんな口ぶりに反して、彼は領域間を自由に行き来しているようであったが。
それにしても、字が読めるようになってから十年程度、まともに読書が出来るようになってから五年程度でどうしたらそれだけ広範囲の本を読みあさることが出来るのか、佑都は尊敬の念と共に畏怖に近い感情を持った。
ひたすら一樹の独壇場が続き、気づけば二人は佑都のマンションの前に来ていた。
「あのな。お前が乱読家だってことはよーっくわかった。それにしても喋りすぎ。ここ俺んちなんだけど。なんでこんなとこまで着いてくるかなあ。」
「え、僕の家もここだけど。五階の、三号室。御津原くんは?」
「………………五階の、二号室」
「わあ、お隣さんだねえ。気づかなかった。後で遊びに行ってもいい?もっといっぱい話がしたいし、御津原くんの蔵書も見たいな。」
「好きにしろよもう……」
近所づきあいの希薄な現代社会、隣人の顔を知らないことは珍しいことではない。それにしてもやっかいな隣人を得てしまったと、ことさら大きく佑都は嘆息するのであった。