長いお別れ
妻の声の中になにか咎める響きはないか、聞き分けながら修二はオーブントースターを開けた。
良い香りの中で新聞を折り曲げて読むふりをする。
「なにか、面白い事件でもある?」
「ん?いや別に」
妻にはくだらない芝居にしか思えないのかもしれない。
熱いパンの上でバターが溶けていく。修二は昨夜抱いた朗の感触を思い出していた。
「今日は遅くなる。夕食は済ませてくるから」
「そう」
なにか言いたげにも聞こえる。不安を押し殺すように修二は食卓を離れた。
朗の身体はそれまで抑え込まれていた修二の情欲をかき立てた。浅黒い皮膚は滑らかで修二の躊躇いがちな指の動きにも
敏感に反応する。
小さく薄い乳首に唇を這わせると身体は反って修二を誘う。修二は甘い言葉をかけることもできないまま
朗の動きを追うように口づけと愛撫を繰り返す。
「指を入れて」
「痛くないか?」
「だから、そっとゆっくりとほぐして、オレの」
朗が受け入れてくれるそこは朗の先走りで濡れて修二の指を待っている。
「大丈夫。修二が入れてくれるの欲しがってる」
修二は震える指で朗のそれの中に入り込んでいく。
濃いめの眉が寄せられ、唇からは小さな溜息がもれる。
「無理・・なら・・・」
「やめないで。いいから」
朗は修二の身体に腕を巻き付け、唇は唇に合わさった。
修二は朗のきつい感触に熱くなっていく。
「あ。いい、凄く。もう。入れて」
朗の中に入ると修二はなにもかもなくなってしまえばいいと思った。
修二が朗と出会ったのはゲイ・バーだった。
五、六人連れだって騒いでいる一角に朗は座って笑っていた。特に目立つ容貌だというわけでもないのに修二は朗に目が止まった。その視線に気づいた朗はわざと別の
友達と話し出した。修二はため息をついてカウンターに座るとウィスキーを注文し軽く飲んで席を立った。
朗が座っている角から笑い声が起きる。ふり向かないように気をつけながら修二はバーのドアを押した。
「待って。忘れ物だよ」
男の声にふり向く。
手を挙げてこちらをみているのはバーの角に座っていたあの男だった。
「え。オレ?」
「そう。これ忘れ物じゃない?」
そう言いながら近づいてズボンのポケットになにかを入れる。
「勘違いかな」
手に取って確かめようとするとその手を押さえられた。
「後で見て。それよりさ、どっか行かない?」
「どこに?」
「どこって決まってる」
男は顔を別の方向へ向ける。
修二は戸惑って小さな声で答えた。
「すまない。オレ、よく判らないんだ」
驚いたように修二を見た朗は笑い出した。
「そうなんだ。相手を探しに来てる、と思った。オレを見て出ていったから誘われた、と思って追いかけてきたんだよ。
でもあそこへ入って来たからには興味はあるんだろ?」
そう問いかける男の目は薄明かりの下でも修二の心を捉える。が、曖昧にしか頷かない修二ににやりと笑うと背を向けて歩き出した。
修二はそれを追った。広い肩から絞れた腰を見つめる。今まで感じたことがないほどの欲望をなんとか押さえ込みながら修二は朗を見失わないよう歩き続けた。
「ここだよ。どうする?」
よく知っている町のつもりだったが、狭い横道から入った路地裏に朗は修二を連れていった。黒い塔のような細長い建物が不気味に見える。修二の動揺は簡単に伝わって朗が軽く笑う声が聞こえた。
「勇気を出してみる?それとも帰る?」
修二はごくりと喉を鳴らしてしまった。声がかすれる。
「行く、よ」
「そりゃ、よかった」
朗は再び修二に背を向けて中へと入っていった。
薄暗いフロントの奥に古びたエレベーターがあり、修二は朗に遅れまいと急いだ。
狭い空間に並んでいると朗は修二より頭半分低く、体つきも細いことが判る。
良い香りがする。コロンの中に感じる男の匂いを嗅ぐとそのまま抱きしめてしまいそうだった。
その途端、エレベーターの扉が開き、朗は黙ったまま目の前の部屋のドアを押した。
もう後戻りはできるはずもなかった。
部屋に入ると朗は濃い赤茶の皮ジャケットを脱いで椅子の背に掛けた。腰は細いのに肩幅は広くグレーのシャツが胸の厚みと胴回りの違いを際立たせている。
ネクタイを外し、袖の釦を外す動作を修二はぼんやりと眺めていた。
「どうしたの?服、脱いだら?」
佇んだままの修二に気づき、笑いを含んだような声で朗は言った。
「先にシャワー、浴びなよ」
「え、あ、ああ。うん」自分のお粗末さに慌てながら修二は服を脱ぎだした。あまりに急いだのでシャツの釦が2個飛んでしまう。
「落ち着いていいよ。別に逃げないから」朗は窓際のソファに深く腰掛けて煙草に火を点けた。一つ煙を吐いて「煙草、よかったかな、吸っても」細長い指で灰を落とす。
「かまわないよ」シャツを頭から脱ぎ捨ててそう答えたが、朗を見るとまるきり興味を失ったかのように側にあった雑誌に眼を向けていた。そんな仕草さえ修二を惹きつけたが、これ以上待たせたら本気で怒り出すかもしれないと思い浴室へと向かった。
シャワーの取っ手を捻りお湯の飛沫を浴びる。
いったい、どういうことだろう。こんな夢のようなことがあるんだろうか。
修二はうっかり財布も何もかも部屋にそのまま放り出してきたことを思い出した。だが今さら飛び出しても。
あいつがそんな奴ならもうすでにいないだろう。どっちみち大した金額は入ってはいない。それより実際に今から起きるかもしれないことに酷く気後れしていた。
・・・男とやる。今までに経験してきたことは自分と年齢としてはほんの子供じみたことに過ぎない。キス、一緒に自慰をし、相手を手伝ってやる。そんなことも自分にとっては衝撃だった。とんでもない勇気を必要とし、堪らないほどの快感をもたらした。が、一度大人の男にやられそうになって殴って逃げ出したこともある。思春期に自分の性がどちらの方向に向いているのか薄々気づいても尚それを自覚するのを怖れた。女性とのセックスを繰り返す度、それが単なる肉体の交流にしか過ぎずなんの喜びももたらさないことを何度も確認しながら知り合いの勧める結婚を断らずに受けてしまった。人並み以上に美しくまっとうな生活を望んでいる女性だった。質素でもいいから幸せな家庭を築きたいのです、と彼女は言った。それを聞いていながら彼女の手を握りしめてしまった。