樹魚
そして、彼らは啼き声を絞り出し、雨を呼ぶ。自らを呼び寄せ、自らが焦がれたのであろう光を重く暗い雲が飲み込み、冷たく嫌な雨がその面を濡らすのだ。嫌らしく、おぞましい啼き声と共に。
そうして捜索するのだ。彼らが、這い出してくるだろう。湿って陰気な地面を。月が中天にかかる頃、穏やかな住宅地が眠りにつく頃。まるで、世界の全てが水底に沈んだように青白く縁取られた街に私は歩き出す。探したところで、なにも見つかることなど無いだろう。
でも、歩かずには、思わずには、想像せずには、捜索せずには、創作せずにはいられない。
土から這い出す、魚について。場違いな当惑しか生まない、半端な怪異について。
歩きながら思う。
この地球の真ん中には、灼熱のマグマの壁の向こう側に、人が知る術の無い。まるで、卵の黄身のように柔らかで、粘つく海があるのかもしれないと。そしてその殻一杯に巨大な樹魚がその巨体を押し込めている。まるで、孵化直前の魚卵のように。ぎゅっと押し込められているのかもしれない。時折現われる、小さな樹魚達はその巨魚の稚魚なのではないかと。
いや、違う。その巨魚が本当は稚魚なのかもしれない。この星そのものを魚卵とし、今も成長を続ける稚魚。やがて生まれいずるその瞬間のために彼の兄や姉達が露払いを、偵察を、予告を、予言を行っているのではないか。大きな大きな末弟が、世界そのものの殻を破って現われるときのために、水を、雨を、世界に少しずつ浸透させているのではないか。
いつか時が、月が満ちたとき、大地そのものを反転させて現われる魚体と、空気の全てを震わせる啼き声に飲み込まれて、世界は雨の中に溶け去ってしまうのではないだろうか。そうして、人も、街も、大地も、海も、そして空気の全てを水の中に取り込んで、溶かしきったさきで、樹魚は海を得。そして月と出会うのだ。全てが水となり、雲も、雨も、海に吸い込まれた海面で、樹魚はその巨大な眼に月を映し、啼くのだろう。これまで、彼の兄や姉達が求めて得られなかった輝きをその目の中に吸い込んで。
そんな終わりを夢見て私は歩く、月光の水底をただひたすらに。明日も、明後日も、その後も。
ずっと。その日をまちわびて。
冷たい海の底から、
海の底のようだ。
そう感じながら、彼らと同じように、月に誘われ、呼ばれ、歩き出た青白い街の底を踏みしめる。月が中天にかかる深夜。すれ違う者は誰もおらず、人家の明かりも不思議と絶えた街。月並みながら、全てが水に飲まれた世界の、海底を歩いているような妄想が沸き上がってくる。
どこを探しても、この版にしか、存在しないんだと。かの古書店の店主は不思議そうに首をかしげながらつぶやいた。
いや、それ以前に、初版が刷られたきりのはずだと。 なぜだろうその目には必然のことを話すものの確信が見えていたように思う。
とにかく、その存在しないはずの一冊、そして一章は私の手元にある。
それは、むしろ願望というべきなのだろう。
世界から誰もいなくなればいい。
誰にも会わなければいい。
私が世界から消えてしまえばいい。
誰にも見つからなければいい。
周りの色に合わせることができない、
晴天。
月との強い関連性も指摘すべき。
多くの記述者が、樹魚の出現時に異形と形容するほか無い月の様子について記録している。
なぜ、なのだろう。私の目の前が
創りかえられたように、書き換えられた、いや現在進行形で書き換えられているかのようだ。
それが、望みであるように。
語り手の少女は妊娠している。その比喩としての樹魚
不思議なことにどの年代記も、日記も、回想録も樹魚のその後のことは伝えていない。降り出した雨について、邪悪な啼き声を聞いた不幸な人間の運命については、詳述しても、樹に登った魚のその後については沈黙したままだ。
憧れ、欲したものを自ら塗りつぶしてしまう。それが、悲劇なのか喜劇なのか、今の私には、判断することができない。取り立てて欲しいものも、なにがなんでもかなえたい夢も目標も、私にはないから。平均以上だと周囲からは名指され、くだんの店主からもしきりにほめられる容姿も、私には価値が見いだせない。確かに、この顔形のおかげで得をしたことも多々あって、それはそれで有効に活用させてもらった、それだけの事だ。学生の本分であるところの勉学も、基本的な定理の反復と変奏の範囲内でこなすことにはなんの不足もなく秀才と呼ばれるレベルに達することはできた。これもただ"できた"というだけだ。勉学を通じた目的があったわけでも、かなえたい夢の途上にあるわけでもない。自己というシステムを今ここで、効率よく駆動させ、最低限の生存を果たすための手段に過ぎない。
「自分を重ねているのかい?」
と、樹魚に執着する私にお節介な店主は問いかけ、それは、違うと私は答える。半分は嘘で、半分は本当。
世界中に散らばる。余計な怪異。